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第689話
*
「ふっ、はぁー。贅沢だったー」
どーんと広い和室に、盛大に両足を投げ出して座って、俺はパタパタと、自分の手で上気する頬を扇いでいた。
「ふふ、大浴場、行ってたんだって?貸し切りで清々と気持ちよかったでしょ」
「はい!もう最高でした。こんな贅沢が許されていいものか」
あまりに広い浴槽が、たった1人で使い放題なんて。うっかり泳いでしまったし、露天のビューも占領で、まるで世界の王様になった気分だった。
「楽しんでもらえたならよかったよ」
「はい。えっと、アキさんは?入って来ないんですか?」
ちょっとだけ護衛たちと話があるから、と、大浴場に向かう俺を1人で行かせたアキは、俺が風呂から上がって部屋に戻ったら、のんびりとここでお茶を飲んでいた。
「うん、まぁ後で入らせてもらうよ」
「そうですか。なんか、心配事です?」
少しだけ歯切れが悪い気がするアキに、コテンと首を傾げる。
「いや、何でもないけど。あ、そうそう。火宮のところの幹部」
「あ、真鍋さん?」
「了解、だって」
「え?あ、あぁ、俺がここにいて、お泊りすることですか?」
「うん」
にこり、と笑って、証拠、と言いながら、スマホのメール画面を開いて見せてくれるアキに、俺はひょいとそれを覗き込む。
差出人には「蒼羽会幹部」の文字、内容は「了解」のそっけないもの。
真鍋らしく、確かに連絡してくれたらしいアキに、俺はますますホッと力が抜けた。
「それにしても、いつ番号交換なんて」
「んー?そんなの、いつでもどのタイミングでも抜き取れるよ」
「……」
「ふふ、うちの諜報部も、IT技術も舐めたら駄目だよ」
「それ…」
犯罪じゃ、と言いかけて、それも今さらだと思い直す。
「抜こうと思えば、日本の公安からだって、情報を引っ張れる」
「すごい…って、感心していいものか…」
確実に間違っているのは分かり切っていて、けれども中国マフィアの首領相手に、それを突っ込むのも無意味だった。
「ふぁぁっ」
「クスクス。まぁ火宮のところも、うちに次ぐ情報網は持っていると思うけど」
「そうですか」
「だから、今回の件、敵の正体にも目的にも、迫るのは時間の問題かな」
パチリとウインクしてみせるアキは、何かしらの情報を握っている様子で。
「何か知っているんですか?」
「さて?蒼羽会が追い詰められている件なら、うちには利も害もないから傍観を貫くけどね。仮にも手を組んだ取り引き相手だ。その動向を見守るくらいはしているよ」
「……」
「ま、あの火宮が、この程度の火の粉を軽く振り払えないとも思えないからね。私たちは高みの見物と決め込もうじゃないか」
あれこれと情報は掴んでいるけれど、それをどうこうするつもりはさらさらない、と。
シレッと諜報員を動かしていることを暴露しながら、その情報には興味のなさそうな素振りを見せるアキにジトッとした目を向けたその顔が。
「まぁ、私も実のところ、そちらに諜報員を割いている場合ではない、っていうのもあるけどね」
にっ、と悪戯っぽく笑み崩れて、シーッと内緒話をするように口の前に指を立てたアキが、クイクイと俺に近づいてこいと促した。
「え?なんです?」
誘われるまま、こっそりと寄せた耳に、アキの吐息がそっと触れる。
「ふふ、実はさっき、護衛と話がある、って言って翼を1人で大浴場に行かせたでしょう?」
「あぁ、はい」
「それね、実は私の都合でね」
「はい…?」
「初め、今回は来日スケジュールの合間に、プライベートな時間が空いたから来た、って言ったでしょ?」
「はい」
「でもそれ、本当は、空けた、って言った方が正しいんだ」
「え…?」
えっと、つまりそれは。
「今回私は、劉の目を盗んで、スケジュールの合間に仕事から逃げてここに来た」
「っ、はぁぁぁぁっ?」
「私が動かせる最低限の護衛と人員だけを連れてね、完全なお忍び旅行だ」
「ちょっと待って下さい…」
え?それっていうのは、なにか、あれか。
中国マフィア、黒幇の最高権力者、連明貴が、その最側近すらにも内緒で、温泉宿に遊びに来たって?
「ふふ。だってあまりにも仕事、仕事、仕事、ってそれこそ秒刻みでスケジュールを詰められて、せっかく日本に来たのに、翼にすら会いに行かせてもらえないような予定の組み方なんだよ?」
「だからって…」
「ほんの少しくらい融通を利かせてもよくない?ってお願いしたのに、あの劉ってば、一歩も譲ってくれないんだもん」
いや、だから、「だもん」って…。
日本語が流暢なのは存じていますけど?黒幇の首領がするには、あまりに似合わなすぎる口調ではないか。
「あの、それって、実はかなり大ごとなんじゃ…」
「ねぇ?劉が血眼になって、私の捜索に乗り出しているって情報は入ってきているんだけど」
「当たり前ですっ」
何せ黒幇の首領が、日本滞在中に行方をくらませたのだ。
あまりそちらの事情に詳しくない俺にだって分かる。大事だ。
「まぁ、つまりはあちらの動向を探るために、こちらの諜報員と護衛を動かしているんだけどね。力が互角なものでねぇ」
それはそうだろう。劉側に残っているのだって、そもそもはアキの部下。黒幇が抱える構成員なんだから。
「それでも、今のところ、私の滞在先はバレていないみたいだから、安心して。ただ、これまた時間の問題だよね」
「だよね、って…」
「ふふ、まぁだから、見つかって連れ戻される前に、目一杯楽しまないとね!」
パッと俺から離れ、にかっと無邪気に笑うアキは、これでいて本当に黒幇の最高幹部なのだろうか。
あまりに邪気がなく、まるで子供のようだ。
「あはは、本当、アキさんって…」
一体この人の、どれが素の姿なのだろう。
過去にずっと押し込め、望み続けてきた、黒幇首領の顔の裏にあった、明貴ではないアキの顔。
「そ、っか…」
連明貴を連明貴と認め、その上でアキをアキとして見てくれる、劉。
あの人だ。あの人と。
きっと前回の来日以来、いい関係を築けているのだろう。
「甘えられているんですね」
劉が心配すると分かっていて、ひょっこり抜け出して姿をくらますなんてことをしちゃうアキさんが。
立場に縛られずに、奔放なことをうっかりしてみせてしまうアキさんが。
「ふふ。そうですね、楽しみましょうか」
「翼…?」
「見つかったら、またアキさんは連明貴に戻らないとならなくなるから」
それまで目一杯、遊んでしまえばいい。
「ねっ、次は一緒に部屋付きの露天風呂、入りに行きませんか?」
今は、アキでいい。
俺の友人で、気兼ねなく旅行を楽しめる、ただのアキだから。
「えへへ、なんだかちょっと嬉しいです」
「翼?」
「アキさんが、一緒に遊ぶ相手に俺を選んでくれたこと」
その位置に、俺を置いてくれていることが。
にっこりと、思わず零れた笑みを浮かべた瞬間、アキの目が大きく見開かれ、そして花が綻ぶように綺麗な微笑みが広がった。
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