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第690話

「や、っと、笑った…」 「え…?」 クスクスと、笑い声を立てたアキが、つん、と俺の頬っぺたをつついてきた。 「ずっと、難しい顔をしていたから。くるくると表情は変わるけれど、今回、笑顔は今、初めて見た」 「っ…そ、う、でした、か…?」 ひくり、と引き攣ってしまう頬の端で、とぼける言葉とは裏腹に、少しだけ自覚していた。 「うん。心配事が多いのは分かっているけれどね。それ以上に、翼はちょっと、気負い過ぎ」 「え?」 ぷにっ、と強張った頬をつまんでくるアキに、俺は目をキョトンと見開いた。 「ふふ、翼はね、もっと自分を信じたらいいと思うよ?」 「え?それって、どういう…」 無邪気に微笑むアキの言葉の意味が分からず、俺はますます深く首を傾げた。 「蒼羽会会長、七重組理事、火宮刃の、唯一無二のパートナー」 「っ…」 「翼はその立場に、必死に立とうと踏ん張って、たくさんの我慢と覚悟と考えを、いっぱい自分に抱えているよね」 「そ、れは、だって…」 「うん。間違ってなんかないよ?あの男に選ばれ、あの男を選んだんだ。そりゃ、ずっしりどっさり圧し掛かるものは多いだろう」 「はい」 こくり、と頷く俺は、アキの話の先が見えずに、ただ静かにその言葉に耳を傾けた。 「あの男に見合うため…。翼がこれでもかというほど、蒼羽会会長のパートナーらしくあろうとしているのは分かるよ?そしてそれを否定するつもりはさらさらない」 「ア、キさん…?」 「だけどただ、そうやって気負って、一線を引いちゃっているのは、翼の方じゃないかなーって、私は思うんだ」 「え…?」 きょとんと開いてしまった口から、とても間抜けな1音が漏れた。 「ふふ、分からない?じゃぁさ、火宮が、『こちらのことは』気にするな、って、翼を遠ざけたのは何故だと思う?」 「え、それは…」 「クスクス、言っていたよね?それが火宮の愛情で、翼のことをものすごく大切にしてくれている、って」 「っ、言いました、けど」 「じゃぁ翼はどうしてそれが気に食わないの?大事にされているなんて、嬉しいじゃない」 「っ、だって!それは、俺だって、火宮さんの…蒼羽会会長のパートナーなのに…」 「ふふ、なるほどね?なら、俺も蒼羽会の関係者なんだから、そっちの仲間に入れろ、って喚けばよかった。でも、翼はそれはしたくない、って言ったよね?」 「それはそうですっ。だって俺は蒼羽会会長のパートナーだから…」 我儘や駄々をこねて邪魔したり足を引っ張ってはいけない。 だから…。 「あれ?」 トンッ、とおもむろに、思考の先が何かにぶつかった。 「ふふ、気づいた?」 「っ、え、あれ?俺…」 ふらりと彷徨った視線の先で、ニマニマと悪戯っぽく笑うアキの顔を捉えた。 「ふふ、『蒼羽会会長のパートナーだから』こうでなくちゃいけない、こうしなくちゃいけない。ぴっちり線引きしているのは、むしろ翼の方なんじゃない?」 「っ、あ、俺…」 「うん。あのね、あの男は確かに蒼羽会会長であるんだけれど、ただの男でもあるんだよ」 「っ…」 「火宮が翼を遠ざけたのも、敢えて情報を与えなかったのも、それって別に、おまえはこちらの領分に踏み込むなーって線引きしたからってわけじゃないんだよね」 「っ、それは」 「うん、翼が自分で言っていたよね?ただ、翼を護りたい、翼を大事にしたいだけだって」 「っ、ん…」 くらり、と揺れる足元を、俺はぐ、と必死に踏ん張った。 「蒼羽会のことだから、おまえは介入するな、って言ったんじゃない。危険だから、翼は関わらないでくれ。多分、火宮の言葉は、こうだったんじゃないかなぁ?」 「っーー!」 「それはつまり、火宮は翼を、蒼羽会の姐と認めている何よりの証。火宮にとっての至宝だ。つまり同時に、蒼羽会会長にとっての、最も大切な場所。聖域」 「っ…」 「そこを狙われる可能性がある、って警戒するってことは、翼を唯一絶対の蒼羽会会長のパートナーだと認めているからで、敵にもそう認識されると分かっているからだ」 「あ、あぁ、ぁ…」 「翼のことを認めてないからじゃない、過保護に匿ってるわけじゃない」 「っ…ぁ」 「むしろ、認めているから、大切にしたいから。ぐっちゃり公私混同で、火宮は翼を籠の中に閉じ込めた」 「っーー」 ドクンッ、と跳ねた鼓動の意味は、火宮が出来て、俺が出来なかったそのことに気がついたから。 「ただの、男だよ」 ふわり、と笑ったアキの顔が、悲しそうで切なそうで、そしてとても綺麗で。 「蒼羽会会長だから。そのパートナーだから。不自由を強いて、窮屈な思いをさせて。それを申し訳ないと思う、火宮のその顔は、ただの火宮刃だ」 「っ…」 「それが物足りない、悔しいと思うのなら、言えばよかった、我儘を、駄々を、こねればよかった」 「っ、そ、れは、だって…」 「そう、火宮翼は、それをぐっと我慢した。自分は、蒼羽会会長の、パートナーだから」 「っ、あ、俺…」 「うん。だけどただの翼とただの火宮は、相思相愛の恋人同士だろう?」 鮮やかに笑うアキの顔が、なんだかとても眩しかった。 「それを我慢して、笑顔を忘れてしまうくらいなら、ね」 クスクスと笑うアキの言葉に、俺はへにゃりと、完全に力が抜けた。 「ふふ、だから気負い過ぎだって言ったんだ。翼は、そんなに気負わなくたって、十分立派にパートナーが務まっているよ」 「アキさん…」 「以前、私に啖呵を切ったのを忘れたの?私に、連明貴じゃなく、ただのアキでいる場所があってもいいと見せつけてくれたのを忘れたの?」 「っ、それは…」 「翼は、私が惚れた、そしてこの私を振った、それで私が納得した、唯一最高の男なんだ」 「っ…」 「火宮刃が、翼の前では遠慮なく火宮刃でいるんだから。翼も少しだけ気を抜いて、火宮翼でいればいいんじゃないかな?」 ねぇ?と小首を傾げるアキは、確かに黒幇首領なんかじゃなく、ただの俺の友人のアキで。 「俺にも状況を教えろ、何かできることをさせろ、置いて行くなら勝手について行くぞ、バカ火宮ー、くらい言うのが、翼じゃない?」 「ちょっ、いや、いくらなんでもそこまでは…」 「ふふ、まぁそれをしなかった翼も、賢くて尊い。けど、それで笑わなくなってしまったのは、ちょっとね」 「そう、ですね…。ごめんなさい」 「まぁ、いいけど」 ふふ、と笑うアキの目が、キラキラと悪戯っ子のように輝く。 「今は、お互い立場を忘れて、ただのアキと、ただの翼だ」 「そうですね」 劉の元から逃亡中の、黒幇首領様と、火宮たちの側から離れてる、蒼羽会会長パートナー。 肩書きを放り出して、今ここにいるのはアキと俺。 「『籠の中で大事に大事に愛でるだけの火宮さんはムカつくから、思い知ればいい』だっけ?」 「え?あ、言いましたね、そんなことも」 「ふふ、せいぜい目一杯、私と温泉旅行を楽しんでやるんだから、だったよね」 「はい」 うん、言った。確かにそんなようなことを言った覚えがある。 [完全に共犯だ] 「アキさん?」 「ふふ、なんでもない。じゃぁ、本当に目一杯楽しもうね。部屋付き露天風呂、いい加減に行こうか」 「そうですね」 にっ、と笑ったアキに、にぃっと笑い返して、俺たちは揃って部屋付きの、豪華な露天に足を向けた。

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