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第693話

そうして、相変わらずの庶民感覚の俺からしたら、もう本当に豪勢な昼食を大満足で済ませ。 午後は少し部屋でのんびりしてから、また温泉に入り、上がってからは温泉卓球だ、と大はしゃぎで盛り上がり、庭くらいなら出てもいいというアキと、庭園の散歩をして。 「ふぅー。なんだかんだ、満喫したー」 夕方、日も沈む頃合いまで、俺たちはあれやこれやと楽しく時間を過ごしていった。 「ふふ、楽しそうでなにより」 「アキさんもね」 パチリとウインクをしてみせるアキに、俺もウインクを返す。 顔を突き合わせ、互いにクスクスと笑い声を上げてしまいながら、俺たちは2人でとても悪戯な気分の中にいた。 夕食を済ませて、またまた温泉に入って、夜。 今日は、優しい月明かりが綺麗な、下弦の月が浮かぶ夜空だった。 「翼…?」 ふと、野外を眺められる、窓際の広縁で、ぼんやりと窓に凭れて夜空を見上げていた俺の背後に、すぅっと静かな気配が近づいた。 「アキさん…」 ゆっくりと振り返れば、浴衣姿が妙に色っぽいアキが、コテリと首を傾げて、こちらに近づいてくるところだった。 「どうしたの?ぼーっと夜空なんか眺めて…。あ、弦月か」 カタン、と小さな音を立て、俺が凭れた窓に手をつき、アキがふわりと夜空を見上げる。 整った横顔が薄月に照らされて、柔らかく微笑む姿が綺麗だった。 「翼?」 ぼんやりと、そんなアキの姿を見つめてしまっていたんだろう。 不思議そうに首を傾げたアキに見下ろされて、俺はハッとしながら、そろりと窓の外に視線を戻していった。 「んー…」 ゆるりと見上げる空には、先ほどと変わらないまま、下弦の月が柔らかく光っている。 闇を支配するほど強くはなく、けれども目を惹かれてしまうほどには美しい。 「闇の帝王…」 ぽつり、と零れ落ちた言葉は、静かに空気に溶けていった。 「帝王…?」 ふわり、とアキの気配が揺れて、小さな衣擦れの音が上がる。 静かに頭を上下させた俺は、ぼんやりと夜空の月を見上げながら、ゆるりと息を吐き出した。 「闇に佇む、最高実力者」 それはまるでアキのような。 夜空に浮かぶ下弦の月。 闇の中にあって、一際美しいその様で、周囲のすべてを魅了し、従える。 「ふふ、黒幇首領の私を形容した言葉かい?」 「ん…」 コロコロと、鈴が鳴る様に楽しげに、軽やかな笑い声がアキから零れ出た。 「火宮さんは…」 「え?」 「火宮さんは、闇の支配者。月明かりを背負って佇む、闇の絶対的な王者なんです」 いつかの温泉旅行を思い出す。あのとき、回廊に佇む火宮を見つめて、そう、思った。 月光を背に凛と立っていたあの人は、漆黒の闇を纏って壮絶に美しかった。 「クスクス、寂しい?」 「え…?」 唐突に落とされたアキの言葉を、俺の脳は理解しなかった。 間抜けた1音が口から零れ、キョトンと見上げたアキの口角が上がる。 「ふふ、火宮刃」 「っ……アキさん?」 「彼と、見たかったなー、とか、考えてる?」 ん?と微笑みながら、コツン、と窓を指で叩くアキに、俺はじわりじわりとその言葉を浸透させていった。 「っ…」 ごくり、とその言葉の意味を飲み込み、理解した瞬間に、カッと頬っぺたが熱くなる。 無意識に、アキと火宮を見比べてしまっていた自分に気がついて、俺はウロウロと彷徨う視線を誤魔化せなかった。 「クスクス、翼の、男は。よほどおまえを魅了しているらしい」 「っ、アキさんっ?」 するり、と隣にしゃがみこんできたアキの手が、俺の頬をツゥーッと撫でていった。 「羨ましくて、憧憬する。いつ見ても、翼と火宮の関係は悔しいくらいに素晴らしい」 眩しいことだ、と笑うアキの指先が、ふにゅりと俺の唇を押し潰した。 「今頃、火宮は…」 「え…?」 「ふふ、私にこんな風に翼を攫われ、神隠しにあって、さぞや慌てふためいていることだろうね」 クスクスと笑い声を上げるアキの目が、完全に悪戯が成功した子供のそれになっていた。 「え?待って、アキさん、え?」 なんかとんでもない台詞を聞いたような気がするんだけど。 あまりにとんでもなさ過ぎて、脳が理解することを全力で拒否している。 「ふふ、驚いてる。驚いてる」 可愛い、楽しい、と、ここへ来てから何度言われたか分からない言葉をまた繰り返され、俺はひたすらに目を白黒させた。 「翼?」 「え、な、ちょ、ま…」 えぇっと?何?ちょっと待って?どういうこと? ぐるぐると巡る思考が、答えにたどり着くことを必死に拒む。 けれども悪戯な目をしたアキは、シーッと言わんばかりに俺の口元に指先を当てて、クスクスと楽しげに笑いながら、俺にその答えを明示してみせた。 「実は、嘘なんだ」 「っっ…」 「火宮が許可した、っていうあれね。ついでに県外も泊まりも、連絡なんて入れていないよ」 ふふふー、と無邪気に笑うアキの顔に、俺は愕然とした目を向けるしかなかった。 「え、だってメール画面…」 見せてくれたよね?うん、見せてくれたはずだ。 確かに「蒼羽会幹部」から「了解」の文字が送られてきていた。 「あぁ、あれ」 「っん」 コクコクコク、と全力で首を縦に振る俺に、アキはパチリと片目を瞑って見せて、ゴメンネ?なんて可愛らしく小首を傾げて見せた。 「工作」 「え…?」 「だから、偽装工作。言ったでしょ?うちの諜報部もIT技術も舐めたら駄目だって」 「っ…」 聞いたけど。 「偽メールの1つや2つ、作るのなんて簡単なんだけど」 「っー!」 な、にを…ちょっと得意げに言ってるんですかーっ! ぶわっと湧いた激情は、怒りなのか苛立ちなのか、焦りか悲観か。 絶望的な現実が目の前に突き付けられ、クラクラと眩暈がしてきた。 「え、じゃぁなんですか?俺って今、実は失踪状態?」 「まぁそうなるかな」 「や、でも自らここに留まっちゃってるんだから、これって無断家出…?」 やば…と思うと同時に、サァッと頭から血の気が引いた。 「クスクス、まぁ昨日から、向こうは大騒ぎみたいね。翼が消えた、って大捜索でね。劉の動向を見張るついでに、蒼羽会の方の動きも報告させていたから」 「ア、キ、さん…?」 え、ちょっと待って。一旦落ち着こうか。 バクバクと跳ねる鼓動を宥めながら、俺は飄々と悪事を暴露しまくるアキに、動揺しまくって冷や汗をダラダラ流していた。 「ふふ、せっかくいい感じに爆弾犯の方の目星がついていたところに、翼の失踪でしょ?」 「いや、アキさん?ちょっと?」 なに楽しげにしてるんだ。こっちはまったくもってそれどころじゃない。 「まぁこのタイミングじゃ、事件と無関係と思うのも難しかったんだろうね。動きの先が読みやすかった雑魚爆弾犯に対して、スマートかつ狡猾なやり口の翼失踪のギャップに、火宮たちは大分混乱したみたいだよ」 「ちょっ…」 何仕出かしてくれてるんだろう、本当に。もう、泣けてきた。 「犯人の目星が間違っていたのか?って再調査に走ったり、狙いや目的がまた雲をつかむみたいに曖昧になっちゃって、大変だったろうなぁ」 面白いの、と笑うアキに、俺はまったく笑えなかった。 「アキさんっ!」 俺を半ば騙してこんなところに連れてきた挙句、今大変な火宮たちのことまで引っ掻き回してくれただなんて、もうどうしたものか。 ドゴォン、と落ちた俺の雷にも、アキは飄々と笑ったまま、全力で肩を揺らしていた。 「ふふ、うん、まぁ、大丈夫」 「っ、何がですかっ!?」 ちっとも大丈夫じゃないだろう。 苛々と、思わずその場に立ち上がった俺にも、アキは楽しげに笑ったまま、目尻に涙まで溜めてゆるりとこちらを見上げてきた。 「だから、我々と互角に渡り合った火宮だもの。すぐに一連の事件の黒幕と、翼をマンションから連れ出した人間が別人だと気づいたはずだから」 「っ…」 それは、「大丈夫」な案件なのか? いや、どこにも「大丈夫」な要素は1つもないだろう。 「だからっ…」 「ふふ、まぁ、言った通りこちらの優秀な部下たちに掛かって、この場所は完全に隠せていたけど?」 「っ…」 「さすがに向こうのホームグラウンドの日本じゃ、少々分が悪いのも確かでね」 「……」 「私の在日はさっき知れたみたい」 「っーー!」 「それで、どうやら六合会がいたずらに翼を連れ出した、ってことまでは、バレちゃったみたいだよ」 すごいね?と笑うアキに、俺は喜んでいいんだか怒っていいんだか、もう訳が分からなかった。 「まぁこのペースじゃ、明日には見つかりそうだ、って報告が来てたよ」 よかったね、と首を傾げるアキに、俺は全力で脱力して、ヘナヘナと再び広縁に座り込んだ。 「よくないです。死んだ。俺オワッタ」 これはもう、帰ったら火宮たちにこっ酷くお仕置きされる案件だ。 「翼?」 「あうぅ、助けて、アキさん」 もう縋りつく相手はアキしかいなくて、そもそもこうなった元凶はすべてこの人なのに、それでも俺は手近なアキに縋りついた。 「ふふ、私を頼ってくれるの?」 火宮より?と嬉しそうに弾むアキの声が憎らしい。 憎らしいのに、今、味方になりそうな人物はこの人しかいなくて。 「アキさんのせいだから、アキさんが庇って下さい。じゃないと俺」 本当にどんな目にあうか分からない。 生きて翌日が迎えられたら儲けものだ。 まさか本当に、火宮が命にかかわるような危害を俺に加えるとは思っていないけれど、それくらいの覚悟が必要だろう恐ろしい状況に、俺は今、置かれていた。 「ふふふふ、じゃぁ、飛ぶ?」 「へ…?」 こてん、と無邪気に首を傾げるアキが、するりと俺の手を取った。 「翼が望むなら、ここから中国に連れ去ってあげるけど」 「はい?」 いや、え? アキは一体何を言い出しているんだろう? ボケッとした頭は、上手くアキの言葉を飲み込めなかった。 「んー?だから、火宮に会いたくないんなら、このまま私が中国に攫ってあげる、って言ってるの」 「え、いや、アキさん?」 「大丈夫、今蒼羽会も七重もゴタゴタしているでしょ?こんな状況で、火宮は国外になんて出られないから、絶対に翼を追って来れないよ」 「あ?あ?あ?」 「そもそも公安が、火宮みたいな大物を絶対に飛ばせない」 「っっ?」 なんだ?この人、何語をしゃべってる? 流れるような日本語だということはどこかで分かっているんだけど、どうにも意味が分からなかった。 「もしも無理やり飛ぼうとしたら、なんやかんやでっち上げてパクられちゃうだろうし」 そうまでして翼を追っては来ないんじゃない?と言うアキだけど。 「やる…から困る」 そう、火宮はきっと、そんなもの軽く飛び越えて、何が何でも俺を連れ戻しにくるだろう。 「だから、行けない。出来ない、俺は…」 出来るわけがない。 逃げたいけれど、するわけにはいかない。 うぅぅ、と半端な唸り声を上げて頭を抱えた俺を、アキは隣から楽しそうに見つめてきていた。 「そっか。まぁまだ猶予はあるから。とりあえず、今夜は寝ようか」 にこっと目を細めるアキの呑気さに、俺はふらりと顔を持ち上げる。 「気が変わったらいつでも」 パスポートとかは必要ないからね、とウインクしてみせるアキに、俺はジト目を向けながら、ふらふらと頭を傾けた。

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