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第694話
翌朝。
「ふふ、すごい隈」
可哀想、と、朝からツヤツヤにこにことしたアキが、布団の上にぼんやりと身を起こしていた俺を見て、こてりと首を傾げた。
「眠れなかった?」
「っ…」
それはそうだろう。
昨夜、アキがそれはそれは楽しそうに暴露してくれた、俺が置かれている今の状況で、どうやったら呑気に眠れるというのだろう。
悶々と、結局夜じゅう気が休まらずに、一睡もできなかった俺は、完全な寝不足に頭をフラフラと揺らめかせていた。
「ふふ。まだ見つかってしまったという報告は来ていないけど」
「そうですか…」
やっぱりここは、自ら火宮に連絡し、居場所を伝えてしまうべきだろうか。
夜中、悶々と考え込んでいた俺は、踏み出す勇気と、怖気づく心の間を右へ左へと揺れ動き、結局今朝までスマホを手に取ることはできずにいた。
「翼?」
大丈夫?と心配そうに顔を覗き込んでくるアキだけど、一体誰のせいでこんなことになっていると思っているのか。
「ねぇ翼。火宮に会ったら、私も一緒に謝ってあげるよ?」
だから元気を出して、と言われても…。
「っ、そ、んなこと、したら、アキさんだって、タダじゃ済みません」
いつぞやの、明貴の側近、劉の右目の件は忘れていない。
それは駄目だと首を振る俺に、アキはあっけらかんと笑い声を上げ、チッチッと気障ったらしく顔の前で指を振って見せた。
「ふふ、大丈夫。私を誰だと?中国は黒幇、六合会首領だよ?」
「知っ、てます、けど」
「その私が、なんの策もなく、火宮の大事な子猫ちゃんを無断で借り出すと思う?」
「え?」
「ふふふふ、今回は、火宮が手打ちにしてくれるだけの好条件の取り引きネタを、ちゃんと持ってきているから」
まったく心配ない、と微笑むアキの、そういえば来日の目的は。
「まぁ、元々七重と…というか、繋ぎの火宮と、そちらに美味しい条件の取り引きを引っ提げてきたのが今回の訪日なんだけどね」
「……」
「来てみたらなに?なんだか蒼羽会が、とーっても面白そうなことになっているじゃない?」
「っ…」
連続爆破事件を面白いと言ってのける、この人はなるほど、裏社会の人間だ。
「ちょっと調べてみたら、翼のことは閉じ込めて引き籠らせているらしくて?」
「う…?」
「まぁ翼の性格からして、鬱屈としているんじゃないかなーと思って。連れ出しに行ったんだよ、籠の中の可哀想なお姫様をね」
「アキさん…」
キザったらしくウインクなんかをしてみせるアキだけれど、その中身はまったく気遣いでも優しさでもないことを、今の俺はもう知っていた。
「って言いながら、完全にアキさんの娯楽ですよね?」
火宮をおちょくって、俺を拉致ってその反応で楽しんで。
「ふふ、まぁ、半分はね」
「アキさん?」
「でももう半分は、やっぱりただ、日本で、清々と、明貴じゃない、アキと、楽しんでくれる翼に会いたかったのは本当だよ」
うふふふ、と微笑むアキの、その目の奥が、なんだかとてもいい感じに緩く綻んでいるのを見てしまい、俺までなんだかへにゃりと気が抜けた。
「ははっ。まぁ結局、俺も楽しんじゃえ、って思ったのは本当ですしね。腹をくくりました」
「おっ?男前だね」
「怖くないわけじゃないですけど、もうこうなったら仕方がないかなって」
「クスクス、開き直りっていうやつか」
「そういうアキさんも、劉さんに見つかったら怒られません?」
それこそ、俺の比じゃなく捜索されまくっているんじゃないだろうか。
こてんと首を傾げた俺に、アキも同じように首を横に傾けて、ぽこん、と疑問符を頭に乗せた。
「ん?劉?いやまさか。劉に私を咎める権限も、苦情や文句を述べる権利もないよ、大丈夫」
「……」
「私が私の意志で私の思うように行動することを、咎める者も異論を唱える者もいない」
「っ…」
「私が黒を白と言ったら、白なんだ。中国黒幇、六合会の絶対権力者というのは、そういうことだ」
ふふ、と胸を反らして悠然と微笑むアキは、どこまでも明貴だった。
「まぁただし、私がそうして好き勝手に行動している時間に、本来設定されていた会合や仕事は、帰ってからこれでもかというほど詰め込むことになるだろうけれどね」
「え…?」
「当然だろう?私の行動に何一つ文句を言わせない代わりに、私は私が行動の責任も尻拭いも、すべて自分で片をつける」
「っ…」
だから、この人は自分の行動を保障できる。
だから、みんなは黙って明貴に従うのか。
なるほどこの人は、それに見合うだけの多大な責任と実力を備えている。
「六合会首領、連、明貴…」
あぁ、やっぱりこの人は孤高の人だ。
だから少しでも、今回の行動が息抜きになったならそれでいい。
願わくば、劉が少しでもそんなアキをメッと咎めてくれたらいい。
この人の、孤独で一番高い場所に、一緒に立ってくれる人がいたら……。
「翼?」
「ふふ、火宮さんにはね、真鍋さんとか、俺がいるんです」
「なに?なんの話?」
「いいえ。ただ、劉さんが、アキさんのそんな存在になったらいいのになー、って。俺の希望的観測です」
「翼?ごめん、ちょっと何を言っているかわからない」
こてり、と心底不思議そうに首を傾げるアキに、俺は「なんでもない」と笑って笑顔を向けた。
「ってでも、あれ?じゃぁもしかして、結局やっぱり、やばいのは俺だけって話ですかっ?」
「え?あ、まぁ、そうなるね」
クスクス、じゃないんだってば。
楽しげに笑い声を上げるアキを恨みがましく思ってしまいながら、それでも覚悟を決めて、俺はスマホを取り出した。
「って、え?」
手に取ったスマホは何故か、ホームボタンを押しても何をしても、シーンと真っ暗な画面が映し出されているだけだった。
「ちょっ、これ、まさか…アキさん、俺のスマホ、電源切りましたっ?」
「え?あぁ、うん。って、今頃?」
気づくの遅すぎない?と笑うアキが、心底憎かった。
「っーー!それは、今思えば、随分と長いことメールも電話も鳴らないなぁとは思いましたよ!」
「クスクス、マンション出る前には、ばっちり切らせてもらったけど?だってGPSとかついてたら、厄介じゃない?」
まぁそれも狂わせることくらいは簡単だけどねー?と嘯くアキに、クラクラと眩暈がしてくる。
「厄介って…」
何のための測位システムか。
有事の際の蒼羽会会長のパートナーとしては、身の安全を保障する目安となるべき居場所通知だというのに。
「まぁ今に限っては、地獄への迎えを呼ぶ位置発信になりますけどね…」
はぁっ、と深い溜息を吐きながら、電源ボタンを長押しして起動したスマホ画面に。
ずらりと見慣れたアイコンが表示されたそれ。
「っ、60件?!」
見慣れた緑の受話器マーク。そのアイコンの傍らに赤文字表示された、不在着信数を示す数が、尋常じゃない数字になっていた。
「や、まって、え、じゃぁもしかしてメールは…」
あぁぁ、こちらももう、見る気力すらなくなってくる。
スパムメールや悪戯メールですら見たことがないほどの未読メールの数。
気力はないけど、見ないのも怖い気がして、恐る恐る開いた1つ2つのメール画面は。
「翼、どこだ?っ……翼!無事か?……翼、どこにいる!電話に出ろ……翼?居場所を教えてくれ…って、うわぁ…」
初めの数通に目を通しただけで、ポッキリ気力は折れて挫けた。
「クスクス、どうしたの?心配メールが、大量に送られてた?」
「当たり前ですよね。まったく笑い事じゃありませんけどっ?」
だから、どこまでも呑気なこの六合会首領様に、メラメラと殺意が湧いてくる。
「ふふ、まぁ、電話が通じない時点で、焦るよねー」
「よねー、じゃないですよ、本当に、もう…」
泣きたい、と弱音を一言漏らしたところで、ピリリリリッと手の中のスマホが音を立てた。
「ひっ…」
びくっ、と思わず飛び上がってしまった俺の、手元で鳴り響くスマホの画面には、『真鍋』の文字。
「あぁぁ…」
多分、何分おきと決めて、定期的に連絡を取ろうと試みていたんだろう。ようやく呼び出し音を鳴らしただろう俺のスマホを、さて、どう処理するべきか。
「ふふ、出ないの?」
往生際悪く、画面を見下ろしたまま止まっていた俺を、アキが挑発的な笑顔で見つめてきた。
「っ、出ますよ!出ます!」
電源を入れた時点で少しは覚悟していたじゃないか。
もうこの先、逃げも隠れもできないことくらい分かっている。
「っ…」
イラッとしながらも、どこかビクビクと、俺は恐る恐るスマホの受話ボタンをスイッとスライドさせて…。
『翼さんっ!』
耳に当てた瞬間、キーンとなりそうな怒鳴り声が放たれて、俺はこの人にどれだけの心配をさせてしまったのかを悟った。
「あ、あぅ、ま、なべ、さん…?」
あぁ、この人がこんなに取り乱した叫び声をあげることなんて、そうないんだよなぁ。
それは俺の失踪がどれほど、この人に心労を与えたかを物語っていて。
「ごめ…」
『聞きません。無事ですね?』
「あ、う、はい…」
俺のなんともない声を聞いて、途端にピリッと冷たく単調になった真鍋の声に、俺はおずおずと答えることしかできなかった。
『すぐにGPSを追って、居場所を特定します』
「あ、それには及びません、自分で白状します…」
これ以上、今多忙を極めているだろうあなたたちに、手間は取らせないよ。
ちらりと窺ったアキの手が、状況を理解している様子で、この旅館のパンフレットを一枚差し出してくれた。
「あー…」
そこに書かれていた所在地の住所を、県名から読み上げる。
メモを取っている様子はないから、真鍋はきっと記憶しているのだろう。
黙って俺の声を聞く真鍋の呼吸音は、ただただ静かだ。
「っ、あの、真鍋さん…」
住所を読み上げ、向こうで頷く気配がしたのを最後に、俺はとっさにやっぱり謝罪を口にしようと真鍋に呼び掛ける。
けれども冷ややかなオーラを電話越しでも放ってきた真鍋に、ひゅっと飲み込んだ息が喉に絡まった。
『大人しくそこでお待ちなさい』
「っ……」
『こちらの一件も、もうすぐ片がつきます。動かせる者を数名、あなたの迎えに向かわせますので』
「っあ、その…」
『あなたはもう逃げ隠れせず、その場でお待ちくだ…』
「っあ?アキさん…?」
真鍋の話が途中で途切れたと思ったら、横からひょいっと俺のスマホを取り上げてしまったアキが、ニコニコ笑いながら、それを耳に当てていた。
「ハロー?」
………
「うん、連だ。翼の迎えどうこうなら、必要ないよ。こちらで送る」
………
「そっちも忙しいでしょ?え?捕えた?すごいね、さすがだ。うん、うん、ふふ、構わないよ?」
………
アキにスマホを奪われたせいで、真鍋の声は聞こえない。
ただ、アキが話す言葉だけから推測するしかない話だけれど、どうやら迎えを断り、アキが火宮の元まで、また送り返してくれるという話になったらしかった。
「ってことで」
「へっ?」
「鬼の元へとご送還」
ごめんね?と笑うアキだけど、まぁどちらにせよ俺の行く先はもう地獄でしかない。
「私のことも劉に告げ口する、って言ってたから、私も諦めて仕事に戻るよ」
「ははは」
はるほど。あっちからもこっちからも迎えに来させるよりは、俺たちが大人しく戻った方がいいということか。
「息抜きは、お終いだ」
「そう、ですね」
「楽しかった。本当に」
「俺もです」
ふわり、と微笑むアキと、ふわり、と微笑み返した俺は、どちらからともなく帰路を見据える。
「私は明貴に」
「俺は火宮さんの元に」
「「戻る時間だ」」
ぴたりと視線を向け合って、合わさったそれを悪戯っぽく緩めて、肩を竦めて笑い合う。
ゆるやかなまどろみの時間が、ゆっくりと終わりを告げようとしていた。
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