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第695話

そうして、来たときの車内とは180度違う気持ちで、俺はアキと、火宮たちの元に向かって帰途についていた。 流れゆく街並みが、見慣れぬものから徐々に見知った景色に移り変わっていく。 何度も通った、何度も訪れたことのある、蒼羽会事務所となっているビルの前につき、俺は零れ落ちそうになるほど音を立てる心臓を、必死に宥めていた。 「お帰りなさいませ」 スーッとスマートに停車した車の、後部座席のドアの外。 がちゃり、と無遠慮に開けられたそこから、慇懃無礼な出迎えの声が響いた。 「っ、ただいま、です…」 ぴしりとブラックスーツを纏った、体格のいい強面の男。 真鍋の補佐でもある幹部の池田の姿を見つけて、俺はビクビクと身を竦めながら、そっと上目遣いでその顔を窺った。 「どうぞ、お降りください」 「っ…」 うん、これ、アキさんとこの車なんだけどね。 まるで我が物顔でドアを開け、促してくる池田に、へにゃりと顔が歪む。 覚悟を決めたつもりなのに、なかなか車内から降りられない俺に気づいて、後ろでアキがクスクスと笑い声を立てていた。 「翼?降りたら?」 「う、わ、わかって、ます…よ」 「ふふ、火宮や幹部の真鍋じゃなかっただけ、マシじゃない?」 楽しそうに笑うアキだけど、この池田もその幹部で、火宮や真鍋と違って、ヤクザヤクザしている容姿なだけに、不機嫌面をされるとさすがに怖いと分からないのか。 「まぁ、ツンドラブリザードや苛烈なオーラを直に浴びるよりはマシかもしれないですけど…」 明らかに怒気を纏っている池田も、さすがに珍しくて怖いんだよね。 降りたくない、という気持ちと、ここまで来てぐずっていてもしょうがないという諦めの間で、俺は中々行動出来なかった。 「ふふ、じゃぁ私も一緒に降りようか?」 加勢ならしてあげる、と笑うアキが、ズイッと俺の横に身体を寄せてきた、そのとき。 ガチャッ。 [あなた様は、こちらです、連様] 唐突に開けられた運転席側の後部座席のドアの音と、流れるような中国語の響きが、車内に降って湧いた。 [リュウ?] なんだ、もう来たの。と言わんばかりの、アキの退屈そうな声が聞こえた。 ハッとしてそちらを振り返れば、俺が池田に促されているのとは反対側。車道側のドアを開けた向こうに、これまたブラックスーツをピシリと着こなした、隻眼の男が立っていた。 [ご無事のお戻り、何よりです。お帰りなさいませ] [ふん、今戻った] つん、と顎を逸らせたアキが、何か中国語を返している。 仕方なさそうにそちらに向き直ってしまったアキが、するりと車内から抜け出していく姿が逆光の中に見えた。 「っ、アキさん…」 うわぁ、こうなったら俺も、もうぐずぐずしていないで降りるしかないじゃないか。 チラリと見上げた車の外では、池田が相変わらず怒気を纏ったまま俺の降車を待っている。 「っ…」 あぁもう分かりましたよ!降りますよ。降りますってば。 いっそ無理矢理引きずりおろしてくれればいいものを。律儀に俺の自発的な行動を待っている池田に舌打ちしたくなりながら、俺はソロソロと車外に足を踏み出した。 「えっと…」 「失礼いたします」 「っえ…?」 そろり、と池田の前に立った俺が、その顔を見上げた瞬間。スッと動いた池田が、かしゃんと俺の手首に何かを嵌めた。 冷たい革の感触がする、黒くてピタッと巻き付くそれは…。 手枷か。 「はぁっ。もう逃げも隠れもしませんけど」 「申し訳ありません」 はいはい、命令ってわけですね。 譲れないと目が語る池田に、俺は仕方なくその手に嵌る枷の存在を諦めた。 「あー、随分とご立腹かな、火宮は」 クスクスと笑いながら、車を回り込んできたアキが、俺の手につけられた枷と、そのもう一方側をきっちりと握り込んでいる池田の手を見て目を細める。 その後ろには影のように劉を従え、悠然と佇んでいた。 「っ、六合会首領様にも、含むところはある、と」 「ふふ、子猫ちゃんを勝手に借り出したことだね?分かっているよ。手打ちにするだけのものを差し出す準備がある」 「商談は、また時を置いて、ということですが、よろしいでしょうか」 ぐ、と俺の手枷の反対側を軽く引きながら、池田が慇懃に告げた。 「今はまだ事態の収束というわけではない、か。クスクス、まぁ掻き混ぜた手前、大人しく待つしかないね」 「…では諾と?」 「あぁ、構わない。そちらの雑事の片がついたら、知らせてくれ」 「かしこまりました」 スッと頭を下げる池田の向かいで、明貴が艶然と微笑む。 [リュウ] 呼ばれた劉が、スッと1歩、明貴の前に出て、池田に何かを差し出した。 [滞在先だ] [確かに] するりと小さな紙切れを1枚、受け取った池田が静かに頷いた。 [ふふ、やはり操れるのか] [中国語のことをおっしゃっているのでしたら、はい] [食えないねぇ] 粒揃いで羨ましい、と笑う明貴の言葉も、池田の言葉も俺にはさっぱり聞き取れなかった。 「アキさん?」 「ふふ、火宮は本当に、たいした男だよ」 「アキさんっ?!」 どうした。何があった。 後ろでギリッと劉の顔が憎々しげに歪んでいるのは何だろう。 「まぁただ、このじゃじゃ馬の行動だけは想定外なんだろうなぁ」 「え…?」 「ふふ、翼もまた、枠の中に収まっているような男じゃないからね」 「っ…?」 いや、一体何の話をしているんだろう、アキさんは。 一人で納得して、一人で楽しそうに笑っている意味が分からない。 「クスクス、ただ、あらゆることを想定し、完璧の上を走る火宮が、想定外に振り回されるのが翼だけだという話さ」 「へっ?」 「籠の中の鳥は、火宮よりもずっと大物なんだ。ふふ、じゃぁ翼、これからお仕置き頑張って」 クスッと笑いながら、すっと近づいてきたアキが、耳にこっそりと囁きながら頬に軽いキスをかましてくる。 「っ、ちょっ、アキさんっ?」 その発言。その言動。 ほら、池田が真っ青になって、俺の枷の片側をグイッなんて必死に引っ張っているし。 お陰で俺はふらついてコケる寸前だし。 向こうでは劉が、眉を吊り上げてキレる直前の顔をしている。 [連様っ!お戯れが過ぎます!] 「まぁまぁ、友との軽いキスくらいなんだというんだ」 っーー!劉の言葉は中国語でよくわからないけど、アキの言葉から推測するに、劉も何やらアキに咎めの言葉を送れるみたいだ。 「ふふ、ならばおまえも、火宮のように勝手をした私を仕置いてみればいい」 アキの言葉に、できかねますと言わんばかりに俯いて黙り込む劉に、アキが「ふはははっ」と声を上げて笑いながら、冗談だ、と嘯いていた。 「アキさん…」 「クスクス、翼。そろそろさよならだ」 「はい…」 「また、日本に来たときには、遊んでおくれ」 にこりと微笑むアキの目に、別れの哀愁は漂わない。 「はい」 「次は、ちゃんと手順と正当な手続きを踏んでね」 「っーー!そう、ですよ!2度と、騙し討ちみたいな真似は…」 「うん、反省しとく。じゃないと翼、大変なことになるもんね?」 「は、っ、あはは、本当、他人事だと思って」 カツン、と事務所ビル内から、外まで響いてきた靴音に、俺も、アキも気づいている。 だからこその別れの言葉に、俺はつんと不貞腐れた振りをしながら、笑顔を向けるしかなかった。 「じゃぁね、翼。火宮によろしく」 「はい。さようなら、アキさん。また」 にこりと笑ってスッと踵を返すアキの、凛とした後ろ姿を静かに見送る。 [リュウ] 端的に一言。明貴の最側近を呼ぶ声に、その隻眼の男はスッとスマートに黙って従った。 同時にザッと、明貴を囲むよう配置につく、護衛の男たちが同じく明貴に付き従い歩いていく姿を最後まで見届けることなく、俺はカツン、とまた1つ響いてきた革靴の足音に、ゆっくりと事務所の方を振り返った。 「翼」 「ひ、みや、さん…」 ゆっくりと、事務所正面、入り口ホール内に佇む火宮に向かって、足を進める。 距離があり過ぎて分からない火宮の表情は、けれどもなんとなく、ただ凪いでいるように感じた。 ゆっくりと、火宮の表情が見えるほどまで、俺はホール内を歩いていく。 俺の手首に嵌められた枷を持つ池田も、同じように俺の隣を進んでいった。 「っ……」 凪ぎのような火宮の表情の中で、唯一、その瞳だけがギラリと冷たく俺を睨み据えていた。 冷たく、怒りを極限にまで抑え込んでなお揺れる、苛烈な炎。 ぎくり、と足を止めた横で、池田がスッと1つ、綺麗なお辞儀をした。 「池田。翼を、仕置き部屋へ放り込んでおけ」 ゆるり、と動いた口の先は、冷たい冷たい声色の命令。 「かしこまりました」の池田の返事が、ぼんやりと痺れたようになった頭の片隅をすり抜けていく。 「おかえり」も、「ただいま」も交わすことなく、一瞬視線が合っただけの再会は、そのままするりと火宮が踵を返してエレベータホールの方へ向かってしまったことで終わりを告げた。 「っ、ぅ…」 「翼さん?参りますよ」 「うぁ、はい…」 分かってたけど、怒ってるーっ。 ひんやりと、底冷えするような火宮のあの怒り。 いつだって、ニヤリと人をおちょくるように笑う火宮の顔が、無表情だった。 「相当、怒らせちゃいましたね」 「まぁ、それは、あなたのなされたことを考えれば」 うん、だよね。 これからどんな目に遭うことやら。もう想像を絶するよ。 「池田さんも…」 心配したよね。怒ってるよね。 クイッと引かれた手枷に従って、テテテッと歩き出せば、池田は小さく息を吐いて首を振った。 「ご処分は、これからです」 それまでは謝罪も咎も必要ない、と告げる池田に、俺はぐっと黙り込むしかできなかった。 ポン、と音を立てて止まったエレベーターは、すでに火宮が乗って行ってしまったものとは、違う機だった。

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