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第696話
カシャン。
冷たく手首に巻きつく枷の、鎖が小さく音を立てた。
「っ…」
ピリッとした緊張感に満たされた、ここは、火宮いわく『仕置き部屋』だ。
簡素な椅子と、部屋の片隅には小さな机。窓はなく、床はひやりと冷たいグレーのタイル張り。
「ちょっと広い取調室みたいな…」
「翼さん?なにか?」
部屋の中央付近に置かれた椅子に、手首につけられた方の枷の反対側をその脚に繋がれて座っていた俺が、思わずぽつりと呟いてしまった声に、池田がピクリと反応して、こちらを見てきた。
「あ、や、なんでもないです…」
見張れ、とでも言いつけられているのだろうか。
俺が座った椅子からは少し離れた場所。俺と出入口のドアを結ぶ直線上に、池田は姿勢よく佇んでいた。
「そうですか?」
「ん…。ただちょっと、こんな部屋があったんだなーって」
蒼羽会事務所となっているビルの内部。俺でも初めて入るこの部屋は、備品庫の奥の隠し扉らしき出入り口から入って来れた。
「やっぱり、制裁部屋とか、そういう?」
火宮も池田も『仕置き部屋』とは言っていたけれど、床は掃除のしやすそうなタイル張りだし、見ないようにはしていたけど、天井には何かを吊り下げられそうなフックが取り付けられているし、壁際には手水場っぽいちょっとした水道もある。
「池田さん?」
「はぁっ。翼さんには、本来ご用などあるはずもないお部屋です」
「はい……」
「悪さをした構成員や、ヘマをした者に処罰を与えるための…仕置き部屋です」
「ん…」
やっぱりそうか。
その処罰、っていうのは、まぁこの人たちの生業を考えれば、凄惨な暴力、あたりにはなるんだろう。
「お仕置き…」
俺にはどんなそれが与えられるのだろうか。
いつになく冷たい表情をしていた火宮と、こんな場所にこんな風に拘束までされているという扱いからして、いつものように軽いお説教と意地悪だけで済むとは思えない。
「っ…」
ぞくり、と震えた身体をそっと縮こまらせて、俺は、相変わらずピシリと姿勢よく立ち続けている池田を、そろりと窺った。
「あの、火宮さんは、あとどれくらい…」
先に一連の事件の処理を済ませてから来ると、言われて待たされてからどれくらい経ったか。
時計のないこの部屋では、それを知る術がない。
「さぁ?まだ連絡はありませんので、もう少し掛かるかと」
「そうですか…。あのっ、その、爆弾の、犯人は…」
「滞りなく、確保済みです。でなければ翼さんをこちらに来いと呼ぶことはしませんし、主犯、実行犯、黒幕もろともすべて捕えてあります」
「そう、ですか…」
まぁそっか。俺を蒼羽会事務所ビルに来させたってことは、もう俺を隠しておく必要がないと確信出来ているからだろうし。
もしもまだ有事の渦中なら、真鍋の補佐でもある池田を、こんな風に大して必要もない俺の見張りになんて駆り出している場合ではないだろうし。
「っ、その、人…。結局、どういう…」
火宮にはほとんど聞けなかった。だから池田も俺への情報をもたらしてくれるとも思えないけれど、そっと窺ってみた俺に、池田はチラリと視線を寄越した後、ゆっくりと口を開いた。
「会長は…」
「っ…」
「会長は、上にあがるとき、多少の強引な手段もお使いになられています」
「ん…」
「理事選の地固めのついでに、後ろ暗いものを抱えている組織のいくつかを、粛清もしてきております」
「っ、そう、だったんだ…」
あの時。俺が明貴に拉致られて、理事選の間中留守をしていた間に、そんなことが。
なんにも知らない。なんにも教えてもらってない。
本当、無知だな、と思うと同時に、そちら側のことを何も教えてくれない火宮に、ゆらりとまた、くすぶる何かが湧き上がった。
「逆恨み、と言えばそれまでです。自らの悪事で破滅したことを棚に上げ、己を踏み台に理事の座に伸し上がっただなんだと、会長への怨恨を抱え復讐を企て」
「っ……」
「1つ1つ、会長の大切なものを奪っていくぞ、と、愚かにも脅しのような真似を。まずはここ、事務所ビル、及び会長の部下。次には会長のお車、あわよくば側近や近しい護衛。情人…翼さんのことも、奪ってやるぞ、と学校を」
次々と、火宮にまつわる場所や物を爆破していったのには、そんな意味があったのか。
「最終的には会長のタマ…お命を、と考えていたようですが、まぁそんなもの、あれだけの目立った動きをされて、こちらが先手に回れないわけがないです」
「そ、うです、ね…」
「ですが」
ピリッ、と、不意に淡々と話していたはずの池田の空気が、この時だけは冷たく冷たく張り詰めた。
「っ?!」
ごくり、と唾を飲み込む自分の喉の音が、やけに大きく耳に響いた。
池田の目が鋭く、俺を見据えている。
「い、けだ、さん…?」
「ですが。あなたが、いなくなられた」
「っ…ぁ」
「よもや会長のお命が狙いというのは陽動で、本来の目的は翼さんのほうであったかと。会長以下、真鍋幹部も、我々も、どれだけ肝を冷やしたかお分かりですか?」
ピリリと冷たい池田の視線は、なるほど、真鍋の補佐だけはある、視線だけで心臓を止められそうな鋭さを持っていた。
「っ、ぐ、俺…」
きゅん、と縮こまった胃を、ぐいと押さえる。
枷のない方の手が、プルプルと小刻みに震えた。
「ふ…。生半可な仕置きで済まないことは、お分かりのようですね」
ゆるり、と持ち上がる池田の口角は、まるでツンドラブリザードを背負った時の真鍋に、とてもよく似ていた。
そんなところ、上司に似なくても、と思った、そのとき。
がちゃり、と扉の開く音と、カツンと響く高級そうな革靴の音が、不意に室内の空気に割って入った。
「っ…」
ぽろり、と心臓が身体から抜け落ちたかと思った。
一気に下がった全身の体温の、一層冷たくなった心臓部。
ドクリ、と一際強く脈打った後に、動きが止まってしまったかのようだった。
「翼」
じわり、と溢れる不機嫌さを含んだ低い声に、俺はぎくりと身を強張らせる。
ドクッ、ドクッと再開した鼓動が、まだ俺の胸の中にちゃんとあると主張を繰り返していた。
「ひ、みや、さん」
ジッと見つめ合った目と目が交わる。
凪いだ静かな表情の中。その目だけが苛烈に俺を見据えている。
ピンと張り詰めた空気の中、火宮の口元が、不意にゆるりと吊り上がった。
「いい子で待っていたか?」
ニヤリ、とした表情は、いつも火宮がよく見せるそれに、とてもよく似た表情で。
けれども今日は、その目がいつまでも冷たく厳しく俺を見据えていた。
「っ、ん…」
火宮の言う、『いい子』では、俺は決してない。
だから、ゆっくりと左右に首を振れば、ふっ、と可笑しそうに小さく息を漏らした火宮が、また1歩、カツンと俺の側に足を進めた。
「自覚はあるわけだ」
「っ、はい…」
こくり、と頷けば、火宮の瞳が薄く細められた。
「池田」
「はっ」
「外してやれ」
クイッと顎をしゃくる仕草で、火宮が俺の手枷を示す。黙って頷いた池田が素早くそれに従った。
「真鍋」
火宮が呼ぶが早いか、カチャッとまた1人、新たに室内に入ってきた人影が見えた。
静謐な空気を纏った、蒼羽会幹部にして、火宮の右腕様だ。
「っ…」
火宮に、真鍋に、池田。蒼羽会トップ3が集まった状況に、俺はゴクリと、生唾を飲み込んだ。
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