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第697話
「それで?」
チラリと冷たい流し目を向けられて、俺はぎくりと身を強張らせながら、そろりと火宮を見上げた。
「俺は、おまえはマンションにいろ、部屋から出るな、と伝えなかったか?」
「っ……」
言われてた。命じられていた。分かってた。
だけど。
「浜崎にも伝えさせたはずだがな。くれぐれも、内側から玄関の鍵は解除するな、と。聞いていないか?」
「っ、聞いて、ました…」
ジロリと鋭い視線に見つめられ、俺は怯んでしまいそうな自分を叱咤して、腹に力を入れて声を絞り出した。
「では、それが何故?」
スゥッと細められた目で見つめられ、俺はくしゃりと自分の顔が歪むのを自覚した。
「っ、だ、って、それは…」
「翼?」
「それは…っ」
冷たく問い詰めるような火宮の声音に、俺は思わずガタッと音を立てて椅子から立ち上がっていた。
「だ、って…」
一瞬食って掛かろうと開いた口は、ふにゃりと情けなく震えて閉じた。
「翼?」
「だって…」
囁くような小ささで、紡ぎ出した言葉の先が続かない。
「だって…」
しゅん、と俯いてしまった顔からは、小さな呟きしか漏れなかった。
「はぁっ…」
不意に、火宮の疲れたような溜息が降ってきた。
ギクリ、と強張る身体が震える。
「っ…」
「翼」
ふぅーっと吐き出す吐息と共に、名前が呼ばれ、ふわりと火宮が動く気配がした。
びくり、と身を竦めながらそろりと顔を上げたら、カツンと1歩、俺の目の前に近づいた火宮が見えた。
「翼」
冷たく問い詰めるように名前を呼ばれ、俺の中で何かがプツンと音を立てた。
「っーー!だって、だってあなたがっ…」
「俺が?」
「っ、俺に、何も教えてくれないで…っ、おまえはただ部屋で大人しくしていてくれればそれでいいって…っ」
「あぁ」
「俺はっ、あなたの…っ、蒼羽会会長の、七重組理事の、火宮さんのパートナーなのに。俺だって、火宮さんのためにっ、みんなのために、蒼羽会のために、何かしたいって…っ、何か出来ないかって…もっと、なにか…」
「あぁ」
「っ、なのにあなたはっ…俺を部屋に閉じ込めて、大事に大事に愛でるだけで…っ、だから」
ぐちゃぐちゃにこんがらがった糸がそのまま、ぽろりぽろりと口から零れて言葉を作った。
「だからっ…俺は」
「翼は?」
「俺はっ…ムカ、ついて…」
そう。ムカついて、目を曇らせて、火宮のためになるならと、アキの誘いについていった。
「俺に…出来ることがある、って…。多忙な火宮さんの近くにいないことで…火宮さんの気懸かりが減って、もっと身軽に動けるようになるならって…」
「なるほどな」
「だって俺はっ、蒼羽会会長、火宮刃のパートナーだから…っ」
ぎゅぅぅ、と握り締めた拳を震わせ、ギュッと唇を噛み締めながら目に力を込め、ぐっと火宮を睨み据える。
俺はあなたのパートナーなのに。
どこまでも見くびられたのが、悔しかった。
それでも言うつもりはなかったんだ。俺はあなたのパートナーだから、火宮を煩わせるそんなことを、言わずに黙って大人しくしていたのに。
ぎっと鋭く火宮を睨み据え、ギリギリと歯を軋ませた俺に、不意に火宮の頬が緩んだ。
「え…?」
ふわり、と風が戯れるような、柔らかな微笑みだった。
キーンと耳鳴りが聞こえ、ガクリと膝が折れた。
「やっと言ったか」
ククッ、と喉を鳴らす火宮の顔は、ただ真っ直ぐに、俺の目を見つめていた。
「っあ…」
ぺたんと座り込んでしまった床の冷たさが、尻と足に伝わってくる。
つられるようにゆるりと下がったはずの火宮の視線が、次の瞬間には、またすぐほぼ変わらぬ高さに合わせられた。
「っ…」
俺のすぐ間近にしゃがみ込んだ火宮の、深い漆黒をした瞳が、俺の全てを見透かすように見つめている。
きゅぅ、と震えた心臓が、トクン、トクンと静かな鼓動を刻み出した。
あぁ。あぁ…。
この人は、全てを分かって、ここにいる。
途端に悟ったその思いに、俺はくしゃくしゃに自分の顔が崩れたことを自覚した。
「おまえが、何かを溜め込み、我慢し、飲み込み続けていたことは知っている」
「っ、ひ、みや、さん…」
「それでもおまえが言わないものを、おまえがそう我慢すると決めたものを、俺は尊重し、認めようと思った」
「あぁっ…」
この人は。この人は、俺をどこまでも理解 っている。
「それがおまえの矜持で、想いなのだろう?だから。俺はそれに、甘えた」
「っ、火宮さん…」
「俺はおまえが大切だ」
「っ、ん…」
「おまえにこちらの領分の話を何でもかんでも伝えないのは、おまえを守りたいからだ」
するり、と滑り込んでくる火宮の声音は、とても心地よく耳に馴染んだ。
「おまえの身を、心を、その輝きを」
「っ…」
「俺には俺の、矜持や想いがある」
「っん、は、い」
分かってる、それは俺だって、重々承知しているんだ。
こくりと頷く俺に、火宮はふわりと微笑んだ。
「だから、俺は俺の考えの下で、おまえが知る必要のないと思うことを、おまえには伝えない」
「っ…」
「それはおまえを見くびってのことではなく、こちら側に来るなという線引きでもない」
「っ、ん…」
「俺の弱さだ。俺の押し付けで、利己的な振る舞いだ」
凛とそう言い切る火宮の、真っ直ぐな目は、少しも揺らがなかった。
「おまえがこちらを知ることで、おまえの目が曇るなどとは思っていない。おまえをこちらに近づかせることで、おまえが損なわれてしまうなどとは思わない」
「っ、はい」
「おまえが関わったところで、何もできることはないと、侮っているわけでは決してないんだ」
「っ、ん。ん…」
分かる。分かってる。だって俺は、あなたの『弱さ』を知っている。
「ただ、怖い」
「っーー!」
毅然と、きっぱりと言い切るこの人は、弱くて弱くて、そしてとても強いと、そう思った。
「ただ、怖いんだ。おまえがどうかなると思わなくても、俺はおまえに触れさせたくないものも、見せたくないものもある」
「っん」
「おまえをこちらの領分から遠ざけて、庇護したのは、俺の我儘だ」
「っ、ひみや、さん」
「我儘なんだ。身勝手で、利己的で、過保護で。俺は俺の我儘を、ただ翼に押し付けただけなんだ」
ふわりと微笑み、潔いほどきっぱりと。これ以上ないくらいの潔く弱さを認めた深い重い愛が、言葉の端からずしりと伝わってきた。
「火宮さん…」
「あぁ。だが、おまえは?」
「え…?あ…」
「おまえは、その『我儘』を、黙って飲み込み、押さえつけたな」
チラリ、と流し目を向けられて、俺はぐぅ、と喉の奥を鳴らした。
「だ、って…」
「あぁ」
「だって俺は、蒼羽会会長火宮刃のパートナーだから…」
「なるほどな」
「だから俺は…」
「そうだな。立派だ。おまえは大人だよ、俺よりずっとな」
ククッと喉を鳴らす火宮は、けれども俺を嘲るような様子ではなかった。
「火宮さん…」
「だけど少し気負い過ぎだ」
しゃらり、と鈴が鳴るような軽やかな声は、俺の心にするりと滑り込んだ。
「気負い過ぎだ、翼」
ふわりと俺を包み込むようなその声の響きに、ふにゃりと身体から力が抜けた。
「翼、俺はな、聞き分けのいい人形を愛したわけではないんだぞ?」
「っ…ぁ」
「俺は、蒼羽会会長のパートナーを、好きになったわけではないんだ」
「っーー」
穏やかに、告げられた火宮の言葉に、ひゅっと飲んだ息が喉に絡まった。
「おまえは、十分にその務めを果たしている。登校を諦め、軟禁状態を許容してくれた」
「でもそれはっ…」
「あぁ。おまえはそれだけでは足りないと、そういうのだろう?それだけでは満足できないと」
「っ、そ、れは…」
こくり、と自然と頷く俺の頭に、火宮はふわりと微笑んだ。
「だけどな、翼。おまえは、『蒼羽会会長のパートナー』として、こうでなくちゃいけない。ここまでできなくちゃいけない。そうやって、自分に高いハードルを課し、必死で俺のパートナーらしくあろうとし過ぎじゃないか?」
「っ、だって…」
「おまえの覚悟は分かっている。おまえの覚悟はよく知っている。けれど翼、おまえはそうやって、『蒼羽会会長のパートナー』であろうとし過ぎて、自分の我儘を押し込めたり、蒼羽会のために何か出来ないかと考えすぎたり、あまりに自分を、雁字搦めにし過ぎなんだ」
「それは…」
「だっておまえは、今回のことの一報が入った際、関わって来ようとしたクラスメイトの女を、『こちら側』に関わるな、と拒絶したんだろう?」
豊峰から聞いた、という火宮に、俺はこっくりと頷いた。
「正しい判断だ。それでこそ蒼羽会会長のパートナーだ。おまえは何の気負いもなく、そう振る舞える」
「っ…」
「俺はな、翼。蒼羽会会長のパートナーを愛したわけではない。火宮翼を、ただそのままのおまえを、好きになったんだ」
「ひ、みや、さん…」
「だからおまえが、何も知らされずに閉じ込められ続けることに我慢できずに駄々を捏ね、情報を寄越せと、一緒に連れて行けと喚いて縋っても、それはそれで構わないと思っている」
「っ、どう、して…?」
だってそんなことをすれば、多忙な火宮に迷惑なことで、有事に備えている火宮の煩いにしかならなくて…。
「ふっ、簡単な話だ。俺がおまえに押し付けているのが、俺の利己的な我儘だからだ」
「っ…そ、れは…」
「その俺が、おまえが我儘を押し付けてくることを、厭うはずがない」
「っ…」
「おまえと俺は対等だろう?だから俺は、おまえがおまえの考えの下に自らの主張を述べるのを聞くつもりはあるし、それで俺の希望とぶつかるのならば、説得する準備もある。おまえの主張を受け入れられると思ったら、引く心構えもちゃんとある」
「っーー!」
くしゃり、と歪んで、クシャクシャになった顔を自覚した。
じわりとぼやけた視界に、火宮の穏やかな笑顔が滲む。
「俺が好きなのは、俺が愛しているのは、火宮翼」
「っぁ、ぁ…」
「その火宮翼は、間違いなく、蒼羽会会長、七重組理事の、パートナーの器を備えている」
「ひ、みや、さ…っ」
「だからおまえはただおまえというだけで、十分立派に、俺の、蒼羽会会長、七重組理事の、パートナーとして務まっている」
あぁぁ。この人は、俺を認めてくれていなかったわけじゃない。
俺の力を侮って、俺を見くびって籠の中に押し込めていたわけではないんだ。
「俺っ…俺は」
「あぁ」
「俺は…」
「あぁ。俺が利己的な主張を言えるのも、そうできるのも、おまえが火宮翼だからだ」
「っ…」
「だからおまえも、この火宮刃に、言いたいことは清々と言い放ってくればいい」
そうだ。俺と、火宮は。
肩書きの外にある俺たちは、ただ互いを愛しく想い合った、恋人同士なんだった。
「あなたはあなたの我儘を。俺は俺の我儘を」
ちゃんと言えばよかった。思っていることをちゃんとぶつければよかった。
だってこの人は、そんな俺のモヤモヤも見透かし、それでいてちゃんと受け止めてくれる度量のある人なんだ。
だから惹かれた。だから並び立ちたいと思った。
「おっ、れ、は…」
「あぁ」
「俺は、蒼羽会会長、火宮刃のパートナー」
「そうだな」
「火宮、刃の、唯一絶対の、パートナーですっ」
ククッと笑った火宮が、スッと俺に向かって片手を差し出した。
ぐい、と火宮の手を取って、するりと立ち上がった俺に、ニヤリと笑う火宮の顔が向けられた。
「おまえは俺が、唯一絶対と選んだ男だ」
だから出来ると。だから信じているのだと。痛いほどに伝わる火宮の想いに、ほろりと1つ、頬が綻んだ。
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