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第699話
ヒュッ、と後ろで宙を切る、鋭い何かの音を聞いた。
ひ、と喉に絡まった悲鳴は、それが真鍋が振った鞭の試し振りだと分かっているからで。
「手はこちらへ」
池田にスッと引かれた両手は、椅子の背もたれをがっちりと握らされた。
「会長」
「あぁ、剥いていい」
え…?
後ろで交わされた不穏な会話が、ぐるりと脳内を巡る。
じわりとその意味を理解して、俺は反射的に後ろを振り返っていた。
「そんなっ、いやだ…っ」
まさかの思いに慌てて抵抗しようとした身体は、ぐん、と何かの抵抗にあって止まった。
「っ…」
見れば池田が、背もたれを握った俺の手の上に、その手が離れないように手を重ねて乗せていた。
「あっ…」
咄嗟に振り解こうと手を引いてみたけれど、ガタンと虚しく椅子が音を立てるだけだで、それは離れない。
「そんな…」
縋るように椅子の背もたれ越しの池田を見つめれば。
「お諦め下さい」
罰ですよ?と視線を合わせてくる池田が、ゆるりと首を振っていた。
「っっ…」
ぎゅっ、と指先に力を入れれば、その上に重なる池田の手にも、きゅっと力が入った。
「池田。絆されるなよ?」
「はっ」
冷たい真鍋の声に、ゆるりと視線を落とした池田は、どうしても真鍋たちのように、冷酷にはなれないみたいだった。
ヤクザの幹部なのに。
甘いといえばそれまでだけれど、この人は本当に情に厚い人だな。
見てられないって思ってくれてる?
その手を酷く煩わせ、これでもかというほど心痛を与えてしまったはずなのに。
もしかしたら、情に厚く優しいあなたたからこそ、1番。
苦しめてしまったはずの俺に、それでも優しさを見せるこの人を、俺はこれ以上煩わせてはいけないと思った。
「っ…」
ぎゅっと唇を噛み締めて、覚悟を決める。がっちりと椅子の背もたれを掴んだ手に力を入れて、抵抗しそうになる心を必死に抑え込んだ。
するりと後ろで衣擦れの音がする。
同時にするっと臀部をこすっていったのは、引き下ろされるズボンと下着で。
ひやりとした部屋の空気が直に尻に触れ、肌が露出されたことを知った。
「っ、く…」
ぴしりとスーツを着こなした大人3人に囲まれ、自分のさせられている姿があまりに惨めで屈辱だ。
それでもじわりと滲む涙を噛み締め堪えながら、俺は震える足を必死で踏ん張った。
「では、10打」
「っ…」
「数はご自分で数えなさい。言えなかったり間違えたりしたらノーカウントです」
そんなっ…。
ザッと青褪めた顔を自覚した。
それでも不満を漏らすには、俺の立場は明らかに弱くて。
「は、い…」
掠れた肯定の返事を漏らすことしか、俺には出来なかった。
「それでは始めます」
スッとお尻に触れた冷たい鞭の感触がした。
ギクリと身体が強張る。
ぎゅぅ、と固く目を瞑り、椅子の背もたれを強く握り締めたら、池田の手が励ますようにきゅっと俺の手の甲を撫でた。
「っ!アァッ!」
不意に鞭の感触が消えたと思ったら、次には鋭く空気を切る音と、ピシッという軽やかな打擲音が聞こえた。
気づいた時にはもう、お尻を焼け付くような痛みが襲っていて、横一線に炎が走ったような、熱さに近い痛みに、叫び声を上げていた。
「数は」
「うっ、あ、痛い…いたっ、ふぇ」
一打目にして、目の前がぼやけた。
なるほど、手加減をしない、と言い切ったこの人の、その言葉の意味はこういうことか。
「ノーカ……」
ふっと湧き上がったツンドラ並みの冷たい声が、何かを言い切る前に、きゅっと手の甲が握られた。
え…?
じわりとぼやけた視界を持ち上げれば、池田がじっと俺を見て、「1です」と目で必死に訴えて来ていた。
「いち……」
半ば反射的に、池田の目から読み取った言葉をおうむ返ししたら、そっと手を押さえる手から力が緩まった。
「ふっ、セーフでいいでしょう。ですが、次はありません。それから、池田」
冷ややかな真鍋の声に、それでもホッとする俺とは裏腹に、名を呼ばれた池田の手が、ピクリと震えた。
「申し訳ありません」
「ふ、甘いな」
ふわりと揺れた空気は何を意味するのか。
頭を下げる池田だけれど、その顔は反省どころかむしろ褒められたかのような色をしている。
俺の頭上を通り越して前後でやり取りされるそれらの意味が理解出来ずに身動ぎしようとした俺に、ふと別の空気の揺れが届いてきた。
『甘いのはどっちがだ。ったく、人たらしめが』
微かな音を形作るのは何かの言葉で。
けれどそれは確かな言葉となっては俺の耳には届かなかった。
ただ、いつの間にか俺たちの真横あたりになる位置、遠く離れた壁際に、火宮が腕を組んで寄り掛かって、こちらを眺めていた。
「え…?」
火宮さんが何か言ったんだろうか。
疑問に首を傾げようとした瞬間、またも容赦なく空気が変わり、ヒュッと宙が切り裂かれた。
「っ、アァッ!にー!痛いっ、にー!」
ぴしりとお尻を強かに打たれ、俺は仰け反り叫びながらも、今度は必死で数を叫んでいた。
焼けた鉄でも押し付けられたんじゃないだろうか。
それほどの熱と痛みを臀部に感じる。
ガクガクと震える足を必死で踏ん張りながら、俺は椅子の背もたれを掴む手に力を入れた。
これがなかったら崩れ落ちてる…。
縋りつくものは椅子の背で。その上に被せられた手からは、「頑張れ」という気持ちが伝わってくる。
その手を温かいと感じた瞬間、不意に、この人がさっき与えてくれた手助けに気がついた。
あぁそうか。さっき、この人は。
数を言い損ねて一打増えてしまうはずだった俺を、助けてくれたんだ。
「ばつ、な、のに…」
本当、どこまで優しいんだ…。
かなわないなぁと思った瞬間、ふと気がついた。
あれ…?
だけど鬼の真鍋が、そんな甘やかしを許すものか?
そろり、と振り返った俺は、「何か?」と言わんばかりに、冷ややかな顔を向けられて、慌ててがばっと前に向き直った。
あ…。
だけど、そうだ。
この真鍋が、もしも本気で鞭を振るっていたら、俺の肌なんてひとたまりもなく裂けるに違いないのに。
そりゃ、泣くほど痛いけど。
手加減などしないなんて言いながら、真鍋はしっかり加減してくれているんだ。
本当、この人たちにはかなわない。
手を押さえつける建前で、俺に耐える力を分け与え、うっかり手を出して庇ってしまって、打たれる危険を防いでくれてる。
それを命じた真鍋の気遣いも。
すべてを見届けるつもりでそこにいる火宮も。
死ぬほど心配させた俺なのになぁ。
そもそも怒ってくれている。
そして分かりやすい罰を与えて許しをくれるつもりでいる。
「っ…」
気づいてしまえば、もう頑張るしかなかった。
心から、この人たちに与えてしまった心痛を悔やんだ。
ズズッと吸った鼻水が、ツーンと目の奥に沁みる。
じんわりと心に広がった温かさに気を取られていた俺に、再びヒュッと襲い掛かった現実は、中々に容赦なく厳しかった。
「っあぁぁっ!さんー。さんっ、かいめぇっ…」
ぴしりと落ちた、真鍋の鞭。
後何回?
あぁ、後7回。俺は泣き叫ばされる。
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