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第712話

         * 「ふっ、あぁぁぁ」 盛大な欠伸をかましながら、テクテクと教室内に入った俺は、ふと振り返った紫藤の苦笑を向けられた。 「おやおや、火宮くん。おはよう。今日から復帰?」 久しぶり、と笑う紫藤に、滲んだ涙をぬぐいながら俺は頷いた。 「うん。ようやく片がついたらしくて」 「そう。長かったね。でもま、おかえり」 ふふ、と微笑まれ、俺はどうにも曖昧に頷いた。 「まぁ最後の3日間は…」 ある意味余分というか、危機が去ったのはすでに3日前なのにっていうか。 「うん?」 「や、なんでもない。それより、俺、随分授業遅れちゃってるよね…」 今一体どこまで進んでしまったのだろう。 有名進学校だけあって、この学校の授業進度は目眩がするほど早い。 「そうだね。えっと、火宮くんが早退した日からだから…」 ここからここまで?と、各教科の教科書を見せてくれながら、紫藤が教えてくれる。 「げ…。ちょっと待って、数学ってこれ、新単元に入っちゃってるじゃん…嘘でしょ」 「くすくす、そうそう、ちょうど昨日ね」 「じゃぁ小テスト…」 「終わったねぇ」 「がーん、本気でか…」 真鍋さんも!本気でそこんとこ、火宮さんのオイタを止めなかったのって、どうかと思う。 どうせ真鍋のことだ。俺の学校生活や授業進度のことなど、しっかりちゃっかり把握していたのに違いないのに。 「それとも本当に多忙過ぎて、こっちまで手が回っていなかった…?」 あの真鍋が、テストがあると分かっている俺を、火宮の我儘に付き合わせて休ませただなんて、まぁ考えられないしいな。 「ま、これから挽回していけばいいじゃない」 「う…。そうだけどさ…」 小テストの1つや2つ、どうってことないよ、と笑う紫藤だけど、俺は俺の将来に、今、ものすごく本気なんだ。 「国立医学部…は立場上難しそうだけど、私立の一番偏差値が高い医学部に入ってやるって思っているんだよね」 「それはそれは」 「俺、今回のことで思い知ったんだ。俺にはあまりにも力がない」 「火宮くん…」 くっと拳を握り締め、ぐっと前を見据えた俺に、紫藤がほんのりと首を傾げたのが見えた。 「俺は火宮さんの関係者だけれど、当事者にはなれないんだ」 「うん」 「だけど、俺はそれでいいんだ。俺は俺の側面から、俺の立場から、火宮さんを支え、守り、そうして立ち並んで歩いていく」 「火宮くん」 だから医師になる。 物理的に、火宮にもしものことがあったとき、直接その命を掬い上げられる位置に行く。 「本当は、医者だけじゃなくて、法学も経営学も学びたいと思っているけど」 「それは…」 「大変なことは分かってる。どんなに難しいことかもね」 「うん」 「内(ナカ)には真鍋さんがいるのも分かってる。だけど俺は俺で、外から、いつでもどんなときもいつだって、火宮さんを守れる男でありたい」 「火宮くん…」 そうして、いつでも、いつだって。 「俺は、俺の作り上げた、俺の城で、火宮さんを迎え入れる準備をしていたい」 それは決して、火宮にヤクザの幹部をやめろと言っているわけではなくて。 火宮は火宮で、俺は俺で。 互いの道を尊重し、並列して歩いていきながら。どうしようもなく相手の手が必要になったとき、どうしようもなく前に進むのが困難なとき、ふと寄り掛かれる場所でありたい。頼れる居場所で、ありたい。 「だから紫藤くん。俺のライバルは、もう紫藤くんじゃないんだ」 「そっか」 「うん。悪いけど、俺は1人で先を行く。ここから俺は、もうぶっちぎりで、1人で自分の戦いの中に走って行くから」 「うん」 「ノートありがとう。俺はもう、自己最高得点を更新し続けることだけに全霊をかけるよ」 「分かった」 にこりと楽しげに笑う紫藤に、俺もにこりと微笑んだ。 「来年からはどうせ、完全にコース別の授業にカリキュラムになっちゃうらしいしね」 「そうだね」 「お互いの健闘を」 「僕も。祈ってる」 ふふ、と目を見交わす俺と紫藤は、きっと同士であれる、と俺は思った。 「さてと、そうと決めたら、俺は休んでいた分の勉強を…」 追いつき追い越すまでどんどん進めなければ。 ふらりと紫藤に手を振って、自分の席に向かった俺は、始業までの時間が惜しいと、さっそく欠席していた分の範囲を読み始めるべく、教科書を開いた。 「うぉっ、翼、久々に出てきたと思ったら、これ何?なんでこんなに燃えてんの?」 「さぁ?」 クスクスと笑う紫藤に、「うぉぁっち!」なんて、人の気迫で遊んでいる豊峰の声が、遠く頭の片隅に、微かに聞こえてきていた。

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