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第713話
「真鍋さんっ!」
バァンッと、ノックもなく、派手に開いた、蒼羽会事務所会長室のドア…ではなく、隣の秘書室という名の幹部室のドア。
その室内の状況を目にした瞬間、俺は、自分のタイミングと入室マナーの悪さを呪った。
「あ…」
ヤバイ。
てっきり真鍋が1人で淡々と仕事をこなしているんだろうと思っていた室内に。何故かもう1つ人影が見えた。
しかもそれは、ソファーに背中から倒れるようになっている真鍋の上に、伸し掛かるようにしている、長髪眼鏡のスーツの男。胸元には弁護士バッヂ。
「っ、翼さん?」
「おや、火宮翼くん。こんにち……ぐはっ」
ニコリ、と微笑んだ夏原の顔は、瞬間的にぐしゃりと歪んだ。
うわ。痛そ…。
ぐるりと巡らされた2つの視線に、誤魔化し笑いを浮かべる間もあればこそ。俺の登場を見とめた真鍋は次の瞬間、自らの上に伸し掛かるようにしている夏原のみぞおちに、膝をクリティカルヒットさせていた。
「はぁっ。なんですか?」
呼吸もままならない様子で悶え苦しむ夏原を、シレッと自らの上から払い除け、床にドサリと落ちたその身体を完全に無視した真鍋は、何事もなかったようにネクタイを締め、上着の前ボタンをさらりとはめて、ソファーから立ち上がった。
「あ、いえ、その…」
ヤバイ。これは完全に、入ってきてはいけないところに乱入してしまったやつだ。
ヒクリと頬を引きつらせ、冷や汗をダラダラと流しながら俺はジリジリと後退った。
「翼さん?」
うわー、その見る者全てを凍りつかせてしまいそうな目。
どこかの神話の怪物じゃないんだからさ。
「っぐ…」
「ごめんなさい」の声も、喉に引っかかって絡まって、ヒクッと奇妙な呼吸音しか出なかった。
「はふっ、はふっ、ゲホゲホゲホ。ちょっと能貴、酷すぎない?」
本気で息が止まった。死ぬかと思った。
とグズグズ言いながら、夏原が涙目になって床から起き上がった。
「………」
「あー、これ、絶対痣になった。くっきり痕がついた」
痛い…とみぞおちを撫でながら床から真鍋を見上げる夏原に、真鍋は絶対零度の冷ややかな視線を向けた。
「でしたら診断書でもお取りになって、被害届でもお出しになられたらいいですよ」
傷害罪で起訴できるのではありません?と冷たく言い放つ真鍋に、夏原の顔がふにゃりと微笑んだ。
「まさか。俺はおまえたちの利益を守る弁護士サンよ?」
「ふっ…」
「それに、打撲痕でも、能貴がつけてくれた痕だもん。喜びこそすれ、訴えるなんて」
あぁ愛しい、と悦びに目を細め、腹を撫でる夏原に、真鍋の頬が引きつったのが見えた。
『この変態がっ…』
うわぁ…。
ボソッと吐き捨てられた真鍋の呟きは、ものすごく納得だ。
けれど幹部室内の気温を一気に下げた真鍋の吹き荒らすツンドラブリザードを、まったく意に介していない夏原が凄すぎる。
「ふふふふ」
次はどうやって真鍋の気を引こうかな、と思案しているのが丸わかりな様子で口元を歪めた夏原の目が、不意にすいっとこちらに向けられた。
「ところで、いいところを邪魔してくれた火宮翼くんは、何のご用?」
次はノックくらいしようね?と笑っている夏原の目が少しだけ鋭い。
「っ、あ、その…」
「いいところ?」
ギロリ。
夏原のチクリとした嫌味に焦った俺の横から、真鍋の絶対零度を凌ぐ視線が夏原に向けられた。
「っ、と…。ハイ、ギブギブギブ」
うわぁ。
さすがにそれは怖いですよ、真鍋さん。
ヒュンッと瞬時に繰り出されたのは、小さなナイフで。
目にも止まらぬ速さのその切っ先が、気づけば夏原の喉元に突き付けられていた。
その、僅か首の皮1枚の位置に据えられたナイフの刃先と、絶対零度の視線に、それ以上口を開くな、という圧が半端ない。
「分かった。分かったから。もう何も言わないから」
これを引いて、とホールドアップの姿勢で苦笑する夏原の引きつった顔が少し可笑しかった。
「あー、もう本当、ヤクザだもんなー」
「正しく」
「ちぇー。凶器はズルいだろ、凶器は」
普通持ち出す?なんて、俺に話を振られても…。
『それに、殺気を纏っていても、殺意のこもっていない目もね』
ズルいよねー?と囁いてくる夏原に、俺はヒクッと頬っぺたが引きつるのを感じた。
あー、この人、本当、対真鍋さんに関しては、何があってもめげないな…。
凄いなぁと思うのと同時に、チラリと真鍋を窺えば。
「小石に躓いて海に落ちて、湾の底に沈めばいい」と雄弁に語る冷たい目が、ピクピクと震えていた。
あ…。この人も、対夏原に関してだけは、全てが乱される…。
「はぁっ、翼さん。この変態は放っておいて、ご用件をお聞ききします」
思わず興味深く真鍋を見つめてしまった瞬間、スゥッと無表情になってしまった真鍋が、淡々とした目をこちらに向けてきた。
「あ、そうでした」
すっかり忘れそうになっていたけど、今日俺がわざわざ事務所に来たのには訳があるんだった。
しかも会長室ではなく幹部室。用があるのは、この幹部様に。
「勉強のことで。俺、志望大学を決めました。それで、勉強を、今以上にみてもらいたくて…」
そのお願いに来たのだ。
「今でもたくさんお時間をいただいているのは分かっているんです。でももっと」
きゅぅと唇を引き結び、ジッと真鍋を見上げた俺に、真鍋の目元がふわりと緩んだ。
「家庭教師の時間を増やさせていただくということでよろしいですか?」
「はい。でもあの、真鍋さんが忙しいのも分かっているので…」
「ふむ」
「自宅に足を運んでもらうのも悪くて…。もし可能なら、俺、毎日学校帰りにこちらに寄らせてもらって、ここで勉強させてもらえないかなーって」
本当、幹部室の片隅でいいから。むしろ部屋の隅で、ダンボール箱でもなんでもいいから机にさせてもらえれば…。
駄目だろうか、と見上げた真鍋の目が、優しく細められて、その頭がゆるりと上下した。
「私が常に構って差し上げられないことをご承知の上でということですね」
「はい。真鍋さんの手が空いた隙を、俺が勝手に奪うので…」
「なるほど。私も毎日ご自宅に出向けるとは限りませんからね。ここにいらしていただいていたら、ほんの10分、20分の隙間を活用できるという訳ですね。効率的です」
よく考えました、と微笑む真鍋の目が肯定的だ。
「それにここなら、いるときは真鍋さんの目が…。そうでなくても誰かしらが出入りしますよね。監視ではないですけど、自宅で1人だと緩んでしまう気や怠け心が引き締まるかなー、なんて。あは、まぁお仕事のお邪魔でなければなんですけど」
へらりと笑った俺に、真鍋の顔がにっこりと微笑んだ。
「こちらは構いません。まぁここでもあなたを1人きりにさせてしまう場面はあるかと思いますが」
「はい。一角だけ貸してもらえれば」
勝手に居座るし。
「では、翼さん専用のお机を、明日までには手配しておきます」
「あ、本当それは、適当な箱とかで全然」
「いえ。そのような待遇は会長がお許しにならないかと」
「あ…そう、ですね」
そうだった。俺、この事務所の最高幹部様のパートナーだっけ。
「まぁ会長にこの提案をしましたら、ならば会長室を使えと言ってきそうですけれどね」
「え!それは困る」
「翼さん?」
「だって火宮さんの部屋で、俺が、勉強になると思いますか?」
「と、いいますと」
「だから、あの火宮さんですよ?仕事場に俺が来ていて…自分の手が空いた瞬間…いえ、空かなくても」
「あぁ」
どう考えたって毎回毎回よからぬ邪魔が入り、勉強どころではなくなるのが目に見えている。
皆まで言うまでもなく、やけに悟った顔をして頷いた真鍋に、夏原が横でクスクスと笑い声を上げていた。
「本当、愉快なところだなぁ」
蒼羽会は、と笑っている夏原に、真鍋の冷ややかな視線が向く。
「でもいい話を聞いちゃった」
「はい?」
「火宮翼くんの勉強。俺も、ここに来ているときは、見てあげようか」
そうすれば真鍋が多忙なときでも俺の勉強になる、って…。
「夏原さんが?」
「クスクス、これでも最高学府法学部、首席入学、首席卒業、現役トップクラス弁護士よ?」
にっこりと、その言葉が嫌味にならないのは、この人の口調や仕草のおかげなのか。
「悪徳の間違いでしょう?」
トップクラス?と冷ややかに目を細める真鍋にも、夏原はにこりと鮮やかに微笑んだ。
「まぁヤクザの顧問だ、違いない」
「………」
「でも火宮翼くんは実力でクリーンな道を行くつもりだ」
そうでしょ?と微笑む夏原に、俺はチラリと真鍋を窺って、覚悟を決めてコクリと頷いた。
「ふっ。それで、あなたは翼さんの勉強を見るという建前を使って、用もなくこちらにふらふらと顔を出すつもりで?」
そんなことは許さない、と冷たい目が語る真鍋に、夏原はひょいっと軽やかに肩を竦めた。
「本当、俺の男は手厳しいよね」
「誰が誰の何ですって?」
どうやら死にたいらしい、と冷気を纏った真鍋の目が、鋭く夏原を射抜く。
「っ…その目。真っ直ぐ俺だけを映してくれるなんて、ゾクゾクする」
「………」
この、絶対零度の視線に射抜かれて、よくもそんな軽口が出てくるものだ。
もう尊敬を通り越して、畏怖しかない。
それも、未知の生き物を見た的な、そっち系の。
「はぁぁぁぁっ」
今日一の、盛大な真鍋の溜息にも、ケラケラ笑ってなんとも楽しそうな夏原を、またも意識の外に放り出したらしい真鍋が、くるりとこちらを振り返った。
「では翼さん、早速明日から。こちらそのように整えて、お待ちしております」
「あ、は、はい。よろしくお願いします」
完全に無視されても、平気な顔でニコニコしているもんなぁ、夏原さん…。
ペコリと真鍋に頭を下げながら、どうにも存在が気になる夏原を、つい窺ってしまう。
「そちらの汚物には、ちょろちょろと訪問を許しませんので」
「あ、いや、汚物って…」
夏原じゃないけど、確かに手厳しすぎじゃ…。
「翼さんの勉強でしたら、私や池田で十分です」
「あ、いえ、えーと?」
これはどう対応するのが正解だろうか。
本当、この2人のゴタゴタに巻き込まれるのは、面倒くさすぎる。
「クスクス、まぁでも、俺もそうそう暇ってわけでもないからね」
クスリと笑って華麗にウインクしてみせる夏原の、その言葉の真意はどこまでも怪しかった。
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