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第714話

そうして、俺が勉強に気合いを入れて突っ走り始めた、ある日のこと。 今日も今日とて学校帰りに蒼羽会の事務所に立ち寄り、幹部室の一角を占拠し勉強に励んでいた俺は、不意にぶつりと集中力が切れ、顔を上げた。 「あ、そうだ、真鍋さん」 トンッと書きかけの課題ノートにつけたペン先が、無意味なドットを描く。 今日はたまたま幹部室内にいて、いつもと変わらぬ淡々とした無表情でパソコン画面を見つめていた真鍋が、何事かと俺を振り返った。 「なんですか?」 タタタンッ、と、どうやら区切りのいいところまでをタイピングしてしまったのだろう。 ブラインドタッチで響かされる、キーボードを叩く音が小気味良い。 「ご質問ですか?」 教科は…と椅子をぐるりと巡らせて、こちらに身体を向けてくれた真鍋に、俺はハッとして慌てて首を振った。 「あっ、いえ。課題が分からなくてとかそういうんじゃなくて…」 やばい。これって、真鍋さんの仕事を中断させてまで話しかける内容じゃなかったかも。 たらり、と途端に流れる冷や汗は、うっかり集中力を途切れさせてしまった自分が、うっかり真鍋の仕事を邪魔してしまったことに思い至ったからだ。 「………?」 きゅっと寄った真鍋の眉が、ならば何故?という疑問を浮かべて俺を見ていた。 「う、あの、本当、勉強とは全く関係なくて申し訳ないんですけど…」 表情筋の動きがおそろしく乏しい真鍋の顔は、何を思っていなくても冷たく見える。 別に怒っているわけではないかもしれない。だけど内心など全く読めないその表情は、内心が全く読めないおかげで、勝手に相手の不機嫌を想像してしまう。 ビクビクと真鍋の顔色を伺った俺に、真鍋はクールな無表情をほんのわずかだけピクリと動かし、小さく髪を揺らした。 「構いませんが、何か?」 え?あ、いいんだ…? なんなりとおっしゃいなさいと、真鍋の眇めた目が言っている。 「あ、じゃぁその…火宮さん」 「はい?会長が?」 「はい、火宮さんの誕生日…もうすぐだったなーって」 へらりと口元を緩めて小首を傾げた俺に、真鍋の目が軽く見開かれて、「あぁ、そうですね」と、小声の呟きが漏らされた。 「11月の24日でしたね」 さすがは幹部で秘書で右腕様。火宮の誕生日くらい、ばっちりしっかり記憶しているらしい。 「はい。俺、前に夏に別荘に行ったときに聞いて…」 「はい」 「それで、あの時クルーザーで、俺の誕生日、すごく素敵に祝ってもらえて…」 「そうですか」 「だからっ、俺も、火宮さんの誕生日に、何か贈りたいなって」 うん、そう。ぼんやりと課題をやっていて、ぼんやりと冬休みまでどれくらい進められるかな、なんて日数を思い浮かべていて、不意に気がついたんだ。 冬休みになればクリスマスとか、年が明ければお正月とか。火宮と出会って1年になるとか。 イベントがたくさんあるなぁなんて思っていたら、その途中に火宮の生まれた日があったこと。 「だけど俺…経済的なこと、何もかも火宮さんに頼っている状態で、そのまま何かをプレゼントは出来ないでしょう?」 「それは…」 「だから、少しでいいんです。俺にバイト…」 「却下です」 スッパリ。 まだ最後まで言ってないのに! 言葉の途中であまりにあっさりとぶった斬ってくれた真鍋に、思わず盛大に眉が寄った。 「何でですかっ」 そりゃ、安全性とか…うん、まぁ主に安全性とか、あるんだろうけど…。 「別に、短期で全く構わないんです!危険だからとか言うんなら、職種はちゃんと考えますから」 「駄目です。許可出来ません」 「どうしてですか!俺はただ少しだけ…火宮さんの誕生日プレゼントとか、クリスマスや1年記念日に、自分で稼いだお金で火宮さんに何かできたらって…」 たったそれだけの思いつきなのに、そんな頭ごなしに切り捨てなくても。 ムッと真鍋を睨み上げた俺に、真鍋の目は呆れたように細められた。 「あなたのお立場上、不可能です、ご理解下さい」 「立場って…」 そりゃ、俺が蒼羽会の姐だってことくらいは、痛いほどよく分かっているけどさ。 「会長の沽券に関わります。ご自身のパートナーに、金銭面で不自由させているのかと、噂が立ったらどうします」 「そんなの…」 たかが俺がバイトしたくらいで言われる? 「体面もですが、何より1番はやはり保安上の理由です」 「だからそれはっ…。あっ、じゃぁ火宮さんが持っている会社の小売店とかでいいですから」 融通の利く店くらいいくらでもあるでしょう? それなら、と期待して真鍋を見上げた俺に、真鍋はますますシラッとした表情で呆れ返った。 「そちらで?『火宮』翼を、いちバイトとしてごく普通に雇い、ごく普通に働かせろと?」 「あ…」 そうか。蒼羽会会長、もしくは火宮社長の縁と知れる俺という人間を、縁ある会社が『普通』に俺をこき使う…のは。 「無理、ですか…?」 そっか。立場って。 邪魔なときは邪魔になるものだなぁ。 思わずチラリと真鍋を見上げてしまったら、多少表情を緩めた真鍋が苦笑した。 「そのように落ち込まれましても。会長は、翼さんのそのお気持ちだけでお喜びになられると思いますよ」 金の出どころなんて気にしない? 「でも…」 「どうしてもお嫌でしたら、七重組長にいただいた祝金等の貯金があなたのご口座にあるではありませんか」 「だってそれも俺が稼いだお金じゃないですもん」 俺が、俺のお金で、火宮に気持ちを贈りたいと思うのに。 「だったらいっそ身分を隠して、履歴書とかも旧姓で…」 「ですから、それこそ認められません。ただの伏野翼さんに、どう送迎や護衛を就労先にご説明するおつもりですか」 「……それは」 送迎は内緒で、護衛はバレないように潜入とか極秘裏にとか…。 「なんて無理か…。そこまで蒼羽会の人に面倒かけられないし、万が一何かが起きた場合、蒼羽会の人にも、バイト先側にも、責任取れない…」 考えたくはないけど、俺の名前と顔がそこそこ有名になってしまっていることは理解している。もしも何かを仕掛けられたとき、万が一大立ち回りでも起きたら、身分を隠してバイトに入っていりしたら面倒なことになることくらいは分かるくらいには馬鹿じゃなかった。 「お分かりいただけたで…」 「ふふふ、そんなの、火宮翼くんが、裸エプロンでご奉仕とか、自分にリボンをかけて俺がプレゼントとか…あぁ、1日中エッチ三昧一日券でもあげたら、火宮会長は大喜びなんじゃないかなぁ?」 クスクスと、突然会話に割り込んできた乱入者の声に、俺と真鍋の視線が同時に幹部室入り口に向かった。 「夏原さんっ?」 「夏原先生?何故あなたが」 ココンッと、開けた幹部室のドアに寄り掛かり、今更ながらのノックらしきものを響かせた夏原が、眼鏡の奥の瞳を楽しそうに揺らしながら立っていた。 「こんにちは。なに、書類をお届けのついでに能貴の顔を見に…じゃなくって、火宮翼くんのお勉強、捗っているかなー?って。俺も協力してあげるって言ってあったでしょ?だから今日も来ているかと思って様子見に寄らせてもらって…」 うん。一瞬ポロッと本音が出た後で、スラスラと建前を述べてもバレてるからね? その証拠に、真鍋の纏う空気が絶対零度を記録している。 「ですから、あなたのご訪問など許した覚えが…」 誰だ、私に勝手に通したのは、と瞳を光らせる真鍋の冷気が怖い怖い。 「ふふ、そんなことより、火宮会長へのバースデープレゼントでしょ?」 「ですからっ、あなたはそもそもいつからそこに。気配を消して黙ってここのドアを開けるなど…」 「まぁそれはほら。それより、だから」 「夏原さん…火宮さんとまおんなじこと言う…」 まぁ実際言ったのは、あの時、俺なんだけど。 裸エプロンに自分プレゼントとか、1日中エッチ三昧の提案とか。火宮のリクエストにほどほど近い発言に、俺は思わず笑ってしまった。 「そ?ならほら、それで十分喜ばれるんじゃない?」 「………」 にこやかなウインク。横で真鍋がキリキリと目を吊り上げているのにはお構いなしか。 だけどその真鍋が、夏原の発言に苦言を呈さないところを見ると、夏原の言葉を内心ではナイスアシストでも思っているのかもしれない。 「でも俺は…」 バイトさせたくない真鍋と、夏原の揶揄いが一致したところで、そんなプレゼント納得できるわけがない。 「やです。やっぱり少しでいいから、自力で、お金を稼ぎたい」 ぎゅぅと唇に力を込め、最後の最後まで駄々を捏ねた俺に、真鍋の眉が不愉快そうに寄り、夏原の顔が面白そうに綻んだ。 「じゃぁやっぱりバイトだ」 「無理です。夏原先生もお分かりでしょう?」 俺の味方をするな、と冷たく光る真鍋の視線を、夏原は飄々と受け止めている。 「まぁ、そもそもあの会長が許さない」 「えっ?あの、火宮さんには内緒にして下さい。サプライズしたいので…」 「はい?」 あなた馬鹿ですか?と言わんばかりの真鍋の視線が痛い。 「会長に無許可であなたにバイトなど、それこそ許せるわけがないでしょう?」 「そこをなんとか!」 「いえ、ですからそもそもバイト自体」 「なら、うちはどう?」 堂々巡りの真鍋と俺の言い合いに、不意に夏原の軽やかな声が割り込んだ。 「はい?」 「えっ?」 またも同時に夏原に向かってしまう俺と真鍋の視線の前で、夏原がサラリと長い髪を揺らして、鮮やかに微笑んだ。 「うち。夏原法律事務所で、短期バイトするっていうのはどうなの、って」 にっこりと、美味しすぎる提案を浮かべてくれた夏原に、俺はがばりと飛びついた。 「いいんですかっ?」 「夏原先生っ、あなたはまたなんて話を…」 「んー?だって火宮翼くんは、会長のためにお金を稼ぎたい。でも安全性やら立場上やらの制約で大変困っている。でもうちなら?事情も素性もボスの俺が分かっていて、安全性だって保証できるのは、能貴も理解できるんじゃない?」 名案でしかない、と胸を張る夏原に、真鍋の顔が苦々しく歪んだ。 「ですがあなたのもとへバイトなど…」 「サプライズなら、会長に言う必要もない。俺のところに通う理由なんて、いくらでも作れるじゃない」 「それは…」 「例えばたまには気分を変えて、場所も家庭教師も勉強の仕方も違う夏原のところで勉強したいーとか」 「………」 「勉強…。そうですね、翼さん。その勉強を張り切ってなされ始めたさなかに、アルバイトなどする余裕が?」 わぉ。今度はそういう攻め方で来た? さすがは真鍋、一筋縄ではいかないけれど、完全に無理がある。 「します。両立。バイトで成績を落とすようなことは絶対にしないって約束します」 「もしもの際は?」 「鞭でもなんでも。お約束しますよ」 うん、ここまで言ったらぐぅの音も出ないでしょう? 自信たっぷりな俺に、案の定真鍋は押し黙った。 「ふふ、男前」 「それだけ俺は真剣なんです。将来も、火宮さんの誕生日への気持ちも」 やってみせるさ。あぁやってみせる。 俺の半端ではない覚悟をようやく理解してもらえたか、真鍋が1つ、深い吐息を吐き出して、チラリと夏原に視線を向けた。 「お雇いいただけますか?」 「うん。実はちょうど、パラリーガルの1人が、身内の介護で長期的に暇を出してもらえないかって言い出してきたところだったんだよね」 「ふむ」 「だから少し雑用の手が足りなくなりそうなところで。翼くんにバイトしてもらえたらこちらも助かる」 それが嘘か本当なのか、相変わらずスマートな発言と笑顔。耳に馴染む柔らかな口調は、この人の弁護士としての優秀さを語っているんだよな。 「はぁっ。本当に、会長に内密で?」 「無理を言っているのは分かっているんです。でもお願いします!」 真鍋に火宮を欺けというのが、どれだけ酷なことなのか。分かっていて、けれどその理由が悪意ではないこれを許してはくれないだろうか。 ガバッと深く頭を下げた俺に、真鍋の苦笑に揺れた吐息が降ってきた。 「仕方がありませんね。どこまで隠し通せるかは分かりませんが」 「真鍋さんっ!」 嘘っ。頷いてくれた! 思わずパッと顔を上げて、目を輝かせてしまったら、横で夏原も、クスクス笑ってそれを祝福してくれた。 「これで俺たち3人は共犯だね」 会長に叱られるときは一緒だよ、なんて、粋にウインクしてみせる夏原が頼もしい。 「まぁ、この程度の話が知れたところで、秘匿していたことを本気で会長に咎められるとも思いませんが」 「うん。万が一にも、何かを起こしてしまうことだけは、全力で阻止するよ」 無事サプライズが成功すればそれでいい。 その責任と重圧を2人に背負わせてしまうことは申し訳ないけれど、この面子になら可能だ、きっと。 むしろこの面子でしかあり得ない。 「お世話をおかけします、けど、よろしくお願いします!」 2人の協力を得、もう一度深く頭を下げた俺に、真鍋と夏原の視線は優しかった。

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