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第32話

キッチンに向かって、とりあえず換気扇のスイッチを入れた。 その足で、食器棚に並んだグラスに手を伸ばす。 ロックグラスってこれだよな? 数あるグラスの中から、背が低く口が広い太っちょタイプのグラスを持ち出す。 曇りのない透明なこのグラスたちは、フランスのバなんだかっていう有名なブランド品ってことくらいは、俺にもわかる。 割ったら諭吉さんが何人も旅立つ…。 グラス1つでン万円という緊張感を持ちながら、俺はなるべく指紋もつけないように、そぉっとそれをリビングのテーブルに運んだ。 「で、氷って?」 製氷皿から出してくればいいんだろうか。 ひとまず冷蔵庫に向かいかけたところで、火宮が部屋から出てきた。 「翼?」 「あ、すみません、いま氷…」 スーツの上着を脱いだワイシャツの上に、品のいい黒のカーディガンを羽織って出てきた火宮。 少しラフになったその感じもまた格好いい。 「おい、翼?」 「あっ、つい見惚れて。すぐ氷持ってきます!」 怪訝な火宮の表情に、慌ててキッチンに走る。 「下にあるアイスボールのことだからな?」 「へっ?あ!はいっ」 火宮からは見えないはずなのに、中段の小さな製氷室を開けようとしたのがわかったのか。 俺は見通されたことに慌てて、下段の冷凍庫に手を伸ばし直した。 「これかー」 冷凍庫に並んでいる、シリコン製らしい、蓋のついたカップみたいなのを取り出す。 好奇心にかられるまま蓋を開けたら、綺麗な丸い氷が出てきた。 「わー、お洒落」 「感心してないで持ってこい」 溶ける、と急かしてくる火宮の声が聞こえ、俺は氷をリビングに運んだ。 テーブルの上にはいつの間にか、グラスの他に、ウイスキーのボトルが置かれている。 「おまえはいいのか?」 グラスが1つであることが疑問なのか。 火宮が氷の入ったグラスをカランと鳴らし、首を傾げる。 「あの、俺16ですけど」 「あぁ、知っている」 「未成年ですよ?」 「だからなんだ」 なんだって…法律知らないわけじゃないだろうに。 「ククッ。そうか。真面目か」 「いや、常識!普通!当たり前!」 思わず叫び声も出る。 「美味いのに」 「そもそもっ、未成年に飲酒させたら、罰されるのは火宮さんもですからねっ」 「サツが怖くてヤクザがやれるか」 「あーいえばこーいう…」 まともに対応する俺が馬鹿みたいだ。 「仕方ない。ハタチになったら、1番美味い酒を、真っ先に飲ませてやる」 フッと艶やかに笑った火宮の言葉は、俺の思考を刃のような衝撃で貫いた。 「え…」 この人いま、なにをサラリと言った? 「誕生日はいつだ」 「……」 「翼?」 「ろ、6月じゅういち…」 「じゃぁ3年後の6月11日だな」 企むように、楽しげに。 鮮やかに微笑む火宮は、その未来を疑うことなく確信的に話している。 3年後…。俺がハタチになるまで…。 捨てることもなく、飽きることもなく、共にいるつもりでいるのだろうか。 毛色の珍しい玩具が、そんなに長持ちするんだろうか。 「た、のしみに、して、ます…」 絞り出した言葉は、途切れて震えた。 「あぁ。期待してろ」 ククッと楽しげに喉を鳴らす火宮は、当たり前のようにその未来を描いている。 なんで?なんで、そんなに簡単に。 その意味を考えてはいけない気がする。 わかってしまったら、何かが脆く崩れ去ってしまうような恐怖を感じる。 考えるな、俺。 1人大混乱の渦に飲み込まれた俺の横で、火宮がゆったりとウイスキーロックの入ったグラスを傾けていた。

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