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第57話

「うぇぇっ、ひっぐっ…ぇっく」 ボロボロと目から落ちる涙が止まらない。 いつの間にか真鍋の手は下ろされていて、ソファから落ちた身体は床に蹲っていた。 「翼さん」 「ふぇぇっ…ぇぐっ…」 倍くらいに腫れ上がった気がするお尻が、ジンジンとした痛みを主張している。 「いかがですか?」 「ふぇっ…なっ、に…が」 「懲りられましたか」 「ッ!」 脱力して床にへたり込んだまま、痛むお尻を必死で撫でる。 「ッ、んっ、んッ!」 そりゃもう、懲り懲りです! ブンブンと首を縦に振ったら、真鍋が、この真鍋が、ふっと笑い声を漏らした。 「それは何よりです」 「っ…ぁ」 見上げた真鍋の顔は、いつもの無表情のクールな美貌。 けれども俺を見下ろす目に、わずかな柔らかさが含まれていた。 「本日はここまでにいたしましょう。もう座るのもお辛いでしょう?」 「う…」 そりゃもう、お尻は火がついたみたいに痛い。 「次回はこのようなことがありませんよう、どうぞご集中下さい」 「は、い…」 淡々とした口調が逆に怖い。 この人、鬼だ。下手をすると火宮以上のどSだ。 ゾッと寒気が這い上がり、俺は真鍋の認識をしっかりと改めた。 「それにしても、翼さん」 「な、ん、ですか」 改めて名を呼ばれ、見つめられただけでドキドキと緊張してくる。 「あなたはこの勉強が無意味だと思っておられるご様子ですが」 「っ、それは、その…」 はい、なんて言ったら怒られるよな。 「怒らないので正直におっしゃって下さい。だから上の空で怠けていらっしゃるのでしょう?」 うーわ、見破られてる。 「うー、は、はい」 「やはり。はぁっ。翼さん。会長がお決めになられることで、何の意味もお考えもないことは、1つもありませんよ」 それはつまり、この勉強に意味があると? 「そう言われたって…。だって俺は、火宮さんに飼われて、火宮さんの支配下で、火宮さんの所有物としてここで過ごして一生を終えるだけの存在なのに」 勉強が生きる場所などどこにもない。 だからやる気も出ない。 「はぁっ。翼さんがどう考えていようとご自由ですが、会長のご命令には、必ず意味があります」 「でも…」 「まぁ、痛い思いをしたくないから真面目にやるのでも構いませんが、もう少し会長を信頼なさってもよろしいのでは、と」 無表情ながらも、誠実な響きを持つ真鍋の声色だった。 「信頼?」 「会長がやれ、と命じたことだから、必要なことである、と」 「真鍋さん…?」 「会長は決して翼さんを悪いようには…いえ、失礼しました。少々お喋りが過ぎましたね」 突然ハッとしたように会話を切り上げてしまった真鍋は、いつもの作り物みたいな冷たい表情に戻っていった。 「では今日はこれで失礼します」 「っー、真鍋さんっ!」 「なんでしょうか。あぁ、くれぐれも、次回はぜひ、きちんとした態度で臨まれますよう」 とても綺麗に微笑んでいるのに、やっぱりどこまでも冷たい真鍋の顔が、丁寧なお辞儀に隠される。 「失礼いたします」 一瞬でいつもの無表情に戻った真鍋は、そのままリビングから消えていった。 「あ…」 会話を完全にシャットアウトした真鍋に取り縋ることができず、俺はぼんやりとその姿を見送ってしまった。 「俺のための勉強…?」 火宮への忠誠だけからの言葉ではないと受け取れる真鍋の発言が、なんだか頭の片隅に引っかかった。

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