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第78話

「ふぁーっ、面白かったー!」 無事希望の席に座れて、大迫力、臨場感たっぷりのイルカショーを堪能した俺は、大満足で隣の火宮を見た。 「……」 「ね?」 「……」 むすっと口を引き結んだままの火宮が、微動だにせずに目の前の水槽を睨んでいる。 その艶やかな漆黒の前髪から、ポタポタと雫が垂れている。 「火宮さん?」 「……」 ついつい頬を緩めてしまいながら火宮を見つめたら、それはそれは凶悪な視線が返ってきた。 「ぷっ…あはははっ!」 「可笑しくない」 「ふふっ、ははっ、み、水も滴るいい男ですよ!」 「なんで俺だけ」 むっすー、と完全に不貞腐れている火宮は、見事にイルカの水飛沫の直撃を食らっていた。 「えー、俺だって濡れてますよ?」 火宮ほどじゃないけど。 たった1席違うだけでこうも明暗が分かれるとは。 火宮から向こう側はドンピシャで直撃を受け、俺からこちらはその余波が降りかかっただけだった。 「ふふ、大丈夫ですか?」 「潮臭い。寒い」 「あっ、そうですよね。とりあえずタオルと着替え…」 さすがに水浴びにはまだまだ早すぎる季節。笑えるけどいつまでも濡れ鼠で遊んでいるわけにはいかない。 売店に、と思って腰を上げた瞬間、不意に目の前にふわりとしたタオルが差し出された。 「かっ、会長っ…大丈夫ですかっ」 青褪めた顔をして、ワタワタと慌てる強面の男がいた。 「構うな」 「でっ、でもっ…」 「これだけもらう。下がれ」 パッと男からタオルだけを受け取り、冷たく応じている。 突然、鋭利な雰囲気を纏った火宮は、なんだか俺の知る火宮とは少し違う。 「火宮さん?」 本気で怒り出してしまったのだろうか。 思わず緊張しながら窺うように火宮を見つめたら、いきなり冷徹なオーラが霧散した。 「大丈夫だ。本気で腹を立てるくらいなら、初めからこんな前列に付き合いはしない」 「うん、でも…」 「まぁここまで濡れるとはさすがに想定外だったがな。甘かったか」 舐めていた、と笑う火宮は、いつもと変わらない火宮だ。 「俺も。自分だけ助かるつもりじゃなかったですよ?ごめんなさい」 「おまえのせいじゃないんだから謝るな。そういうおまえだって、そこそこ濡れているだろうが」 風邪を引く、と苦笑して、ふわりと頭に掛けてきたタオルでガシガシと拭かれる。 「っ…あは。でも楽しかったです」 「それなら良かった」 見えなくても、火宮が穏やかに微笑んだのがわかった。 くしゃくしゃになる髪と、乱暴に拭かれる頭の下で、タオルに隠れた目がジワリと熱くなった。 ツーンと痛んだ鼻の奥と、ギュッと苦しくなった胸の中は何なのだろうか。 「っ、くっ…」 駄目だ、泣く。 唐突に感じた予感に、ギュッと硬く奥歯を噛み締めた。 「翼?」 「っ…なんでもなっ…」 フルフルと左右に振った頭を、ふわりと抱きしめられる。 「翼」 っ!反則だ。 その艶やかな低い声。 優しく優しく俺を包み込むような、心地のいい響き。 「っーー!」 駄目だ、泣いたら。 絶対変に思われる。 ぐっと噛み締めた歯が、ギリッと音を立てた。 「いいんだぞ」 「っ…」 え? 「幸せだと感じて、いいんだぞ」 「っなーー」 何する。 どS!意地悪!バカ火宮。大馬鹿サディスト! トンッ、とあまりに簡単に、涙腺崩壊のツボを突いてくるなんて。 こっちは必死で泣くのを堪えていたのに。 「いいんだ。心は、翼、おまえのものだ」 「っーー」 あぁぁぁ、どうして。 ボロッと目から溢れた涙が、俯いた足元にボタボタと散った。 なんでそんな風に俺を救い上げる。 なんで見透かしたように、俺の1番欲しい言葉を、寸分の狂いもなく与えてくれるんだ。 「っ…ふっ、くっ…」 好きです。 そんなところもたまらなく。 ギュッとタオルごと胸に抱き込まれた頭が、トクン、トクンと脈打つ火宮の鼓動を感じる。 期待して、いいんですか…? そっと頭を起こして見上げた火宮の顔が、優しく穏やかに微笑んで、俺を見下ろしていた。

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