79 / 719

第79話

「翼」 「ひ、みや、さん…」 見つめ合った目が、ジッと重なったまま逸らせない。 震える心と同時に、唇も震わせてしまったら、火宮がふわっと笑顔を深めた。 「泣き虫」 「え…」 スイッと長い指先で涙を掬われ、その指が火宮の形のいい唇の中に吸い寄せられていく。 「ククッ、しょっぱい」 「っ…」 なんて愛おしそうな目をするんだろう。 軽く持ち上がった口角と、薄く細められた目に見つめられ、キュウッと心臓が縮こまる。 「ずっと…」 「え?」 「ずっと泣いてばかりいたと」 「え…」 ふわりと頭を撫でられ、ドキリと鼓動が跳ねる。 「浜崎が、翼が辛そうに泣いていたと。真鍋も…。朝、目を腫らしていた日があっただろう?」 「っ、それは…」 報告、全部行ってるのか。 「急激な環境の変化が、急に辛くなったのかと。少し現実感が出て来て、置かれた状況をじっくりと実感してきてしまったのかと」 「っ…」 「ずっと閉じ込めっ放しだったし、ふさぎこむのも無理はないだろう。だから気晴らしに外に連れ出して、少しは気分転換になればと思ったんだ」 ふわり、ふわりと頭に触れる火宮の手から、優しい温かい波動が伝わってきた。 「っ…」 「よかった」 ふわぁっ、とまるで穏やかな風が吹いたような、美しい微笑。 新たな涙がぶわりと目に盛り上がり、ポロポロ、ポロポロと頬を伝ったのを感じた。 「っ…ぁ…」 もうだめだ、そんな慈しむようなことを言われてしまったら。 そんな優しい話を聞いてしまったら。 感動と期待が頂点まで高まり、心が震えて気持ちが溢れ出す。 「っ、ぁ…す、き…」 「翼?」 「好きです、火宮さん。あなたが好き」 ぽろりと、こぼれ落ちるように言葉が口をついて出ていた。 「好き」 目の前の身体にそっと手を伸ばして、泣き顔を、震える身体を押し付けるように火宮に抱きつく。 スンスンと鼻をすする音が、火宮の濡れた服に触れ、くぐもった音になる。 「翼…」 あぁ、背中に回る手が…優しく抱き締め返してくれる腕が……。 な、い…? 「ひ、みやさ、ん?」 そろりと頭を起こして、恐る恐る上を見上げる。 俺もだ、とか。当然だろう?とか。綺麗でちょっと意地悪な笑顔があることを期待した俺の目が捉えたのは、にこりともしていない火宮の顔だった。 え…。な、に…? それはあまりに冷たくも見える表情で、一瞬にして心が凍りつく。 静かに見下ろす火宮の瞳に、呆然と見開かれていく俺の目が映る。 「っ…火宮、さ、ん…?」 震えて掠れた声を漏らした俺の目の前で、火宮の唇がゆっくりと言葉を形作る。 「無駄だ」 「ッ!」 「無駄だ。俺はおまえを所有物以上として見ることはない」 ガツンと鈍器で殴られたのかと思った。 それほどの衝撃が全身を突き抜ける。 ストンと落ちてしまった両腕と、ふらりと1歩下がってしまう足が震える。 身体から、力が、抜ける。 「っ、おっと、翼」 「っ…」 なんでこんなときまで、そんな風に優しく抱き止めるんだ。 だから俺は勘違いしてしまう。 「あぁ、あぁぁぁ…」 そうか、勘違い。 火宮がこうして優しく触れてくれるのも。 気を使って水族館なんかに連れてきてくれたのも。 キスも、抱くのも、微笑みかけてくれるのも全部。 ただただ俺が所有物だから。 自分が占有した、自分のモノに、ただ愛着と執着を見せているだけなのだ。 なんて馬鹿な俺。 それが恋情を含む愛情だと勘違いして。 ほんの少しでも望みがあると期待して。 そんなわけがなかったのだ。 「ごめんなさい…」 「翼?」 「ごめんなさい、出過ぎた真似をしました。忘れて下さい」 俺は所有物。ただのモノ。 いくら心は自分のものだとしても、こんな感情は、ただの思い上がり、だ。 「なんでもないです。なんでも…」 「あぁ」 にこりと浮かべたつもりの笑顔は、くしゃりと不恰好に失敗したのがわかった。 「その顔も拭いておけ」 頭に掛かっていたタオルをそのまま押し付け、火宮が離れて行ってしまう。 「はい…」 踵を返した火宮の背を見つめた俺の心は、濡れた服よりもなお重く冷たかった。

ともだちにシェアしよう!