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第80話

それから、どうやってスタジアムを後にし、水族館を出てきたのか。 抱き上げられた記憶はないから、自分の足で歩いてきたんだろうけど、俺はまったく認識しないまま、いつの間にか火宮の車の助手席にいた。 いつもの皮肉な笑みさえ浮かべていない無言の火宮が、静かにステアリングを握っている。 黙ったままただ前方を見据え、どこへ向かっているのか。 車窓を流れる景色には、悲しいほど眩しい海面の煌めきが映る。 消せるのかな…。 この先も、俺は火宮の側に居続けなければならない立場にある。 けれどもそこに、この感情は不要なものだ。 忘れなきゃな。 俺はモノ。俺はモノ、と呪文のように繰り返し、感情自体が消えてしまうようにと念じる。 心地のよい車の揺れが響き、こんなときでも気遣うように丁寧に運転されていることに気がついて、鼻の奥がツンと痛んだ。 「っ…」 慌ててぐっと噛み締めた唇から、微かに鉄の味が広がった。 「翼、着いたぞ、下りろ」 ぼんやりと窓の外を見るともなしに見ていた俺は、不意に車が入った建物を見上げた。 「ここは…」 およそ火宮には似つかわしくない、俗な1つの目的のためにある建物。 いわゆるラブホテルと呼ばれる施設だ。 「来い」 先に下りた火宮に助手席のドアを開けられ、無造作にくいっと顎をしゃくられる。 「っ、はい…」 差し出される手は、もうそこにない。 ストンと下り立った俺に向けられるのは、着いて来いと命じている無言の背中だけ。 逆らうことも出来ずに後を追った俺は、ただそういう目的のためだけにある部屋の中へ、静かに足を踏み入れた。 「っ…」 いきなりドーンと目に入ってきた大きなベッドに怯んだら、薄く笑いを浮かべた火宮が振り返って目を眇めた。 「クッ、なんだ、初めてか?」 揶揄うように喉を鳴らして、いつものように意地悪く頬を持ち上げる。 緩く吊り上がった口の端は、どSモードのときの見慣れた笑み。 「あぁ…」 あぁそうか。お仕置きか。 調子に乗って告白なんかした馬鹿なペットに、今から制裁するんだ。 おまえはただの所有物だと、立場を思い知らせるように、きっととても残酷に抱く。 「ほら、固まってないでさっさと風呂に入って来いよ」 透明なガラス張りの浴室は、部屋から中が丸見えだ。 笑いながらそちらに向かって顎をしゃくる火宮は、ブレなく意地悪い。 「分かりました」 うん、それでいい。 いっそ身体ごとこの心をズタズタに引き裂いて下さい。 2度と恋慕の情など湧かないほどに、酷く、ボロボロに壊れてしまうまで、滅茶苦茶に抱いて。 「ほら。嫌なんだろう?」 返事をしたまま動いていなかった俺の目の前で、何かリモコンを取り上げた火宮が、浴室の方に向けてピッとボタンを押した。 浴室と部屋を仕切るガラス張りの壁が、瞬時に曇りガラスに変わる。 「え…?」 「ククッ、まったく初だな」 楽しげな笑い声を漏らす火宮を、思わず馬鹿みたいに見つめ返してしまう。 「な、んで…?」 それは無知な俺が、そのシステムに驚いたからじゃない。 まだ気遣うように感じるその気まぐれの理由が分からないからだ。 「ほら、これでいいだろう?早く入って温まって来い」 「っ…」 分からない。そんな穏やかに笑う理由が。 ここにはただヤりに来ただけじゃないのか。 「どうした?濡れた服のままじゃ、風邪を引くぞ。脱いだ服は乾かすからそっちに出しておけよ」 「え…」 「なんだ?」 「っ…」 それはこっちの台詞だ。 これは一体なんだ。何のつもりだ。 「翼?」 「っー!なんでっ…」 「なんでって、俺ほどじゃないにせよ、おまえも濡れているだろう?ここで休憩がてら、服を乾かそうと。腹が空いたなら、ルームサービスも取れるんだぞ」 レストランとまではいかないけどな、と笑う火宮は、本当に本気で言っているようで。 「っ、いらない!」 「翼?」 「そんな気遣いや優しさはいらないっ…」 やめて、お願い。 そんな風に大切にしているみたいな素振りを見せられたら、一向に想いが消せなくなる。 したくない勘違いをさせられ続けて、馬鹿みたいに好きになる。 ますます、ますます好きになる。 深く瞬きを1つして、大きな深呼吸を1度して。 「ねぇ、火宮さん」 できるだけ傲慢に、できるだけ妖艶に。 流し目と言われるものと、口元だけの笑みを浮かべて見せて、俺はゆっくりと火宮に近づいた。 「ここはラブホですよね?」 手の届く範囲に来た火宮の胸倉に手を伸ばし、ぐいっと引き寄せて顔を近づける。 ニットの首元が伸びるのもお構いなしだ。 「翼?」 怪訝な顔をしている火宮だけれど、俺の行動を制止することもなければ、逆らうこともない。 「クスッ。何する場所?」 軽く踵を浮かせて伸び上がって、引き寄せた唇を塞ぎにいく。 チュッと音を立てた軽いキスの後、その柔らかい唇に、歯型がつくほど強く、ガブッと噛み付いてやった。 「っ!翼、何を…」 「あっ、ごめんなさーい」 わざとですけど。 パッと離した手と唇。 同時に火宮もサッと俺から距離を取る。 「何のつもりだ」 チロリと唇を舐めた舌の赤が艶かしく、壮絶に睨んでくる目にゾクリとなる。 「ふふ、躾のなっていないペットなんで、ついうっかり、美味しそうで噛んじゃいました」 わざと、ふざけた言葉を投げつける。 わざと、火宮を怒らせる。 「ふっ、それこそ、何のつもりだ」 冷笑と呼べる笑い声を漏らして、挑発にまったく乗ってこなかった火宮が、ズイッと1歩、距離を詰め直してきた。 「痛いことと怖いことが心底苦手なおまえが、俺をそんな風に煽る真意は?」 スゥッと細められた目が、俺の拙い策略を容易く見透かす。 「っ…真意なんて別に。ただ俺だってたまにはサカりますよ。だってここはナニをするところでしょう?」 「ヤられたいのか?しかも、手酷く?」 解せない、と眉を寄せる火宮に向けて、俺は精一杯の笑顔を見せた。 「はい。手加減なしで抱いて欲しいんです」 「ほぉ?おまえが、な」 「いや違うか。犯して欲しいんだ。火宮さんが思うままに、好き勝手に犯して欲しいんです」 「は…?」 満面の笑みで告げる言葉にしては、あまりに不釣り合いだったか。 火宮の顔が珍しく引きつった。 「慣らしもせず、可愛がりもせず、いきなり、無理やり、犯して下さい」 「翼?」 「どんなに痛くても怖くてもいい。怪我をしても苦しんでも構わない。お願いです。俺を、滅茶苦茶に犯して」 お願いだから。 一生消えない記憶になるように。 決して消えない瑕疵となるように。 心も身体もズタズタに傷つけて。 精一杯媚びた笑顔を向けて願った俺を、火宮はただ静かに見つめてきた。 「それが望みか?」 「っ、はい」 「心底からの、おまえの望みか?」 凪いだ顔が、こんなときでも優しくて泣けてくる。 「はいっ…」 あなたにもらえるものが愛じゃないなら、一生消えない傷がいい。 一生消えない酷い記憶で、俺の心を凍らせて。 あなたに惚れた心ごと、2度と溶け出すことがないように。 「俺は元々火宮さんのものですよ?1度くらい、俺の身体や快感に構わずに、思いっきり抱いて下さいよ」 「翼…」 「俺は所有物なんだから。あなたのモノなんだから…」 スゥッと伝ってしまった涙を隠すように火宮の胸に飛び込む。 「いいんだな?」 「はい…」 ぐるんと視界が回転したかと思ったら、トスンとベッドに背がついていた。 のし掛かってくる火宮の顔が、なんだかいつもよりやけに苦しげだ。 「これが、望みだな?」 「もちろんです」 再度の確認に、俺は迷わず深く頷く。 ギュッと眉間に皺を刻んだ火宮の顔を見たくなくて、俺は静かに目を閉じた。 「わかった」 わずかに掠れた火宮の声は、一体何を意味している。 閉じた瞼の向こうで、いま、どんな顔をして俺を見下ろしている? 好きです。 どれほど残酷な記憶でも、どんな痛みでも。 あなたがくれるものならば、俺は幸せです。 大好き…なんです…。 スゥッとこめかみを伝い落ちた雫が、パタリと耳元に散った音が聞こえた。

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