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第94話

「っ、それって…」 思わず息を飲んでしまった俺を、火宮の宥めるような手が抱き寄せてくれた。 コテンと寄り添ってしまった身体から、直に火宮の呼吸と、鼓動と、肌を通した声が伝わる。 「刺激が強すぎたな」 すまない、と苦笑する火宮だけれど、その光景を目の当たりにした当時の火宮の方こそと思う。 「だって俺と同じ年の頃の話でしょう?」 今の俺に置き換えてみたら、そんな壮絶な体験、とてもじゃないが受け付けない。 「火宮さん…」 恐る恐る見上げた火宮の顔は、静かな凪のような表情をしていた。 「俺が殺した」 「っ、違うっ!違いますっ…」 「違わない。聖は俺のせいで死んだ」 ゆっくりと首を左右に振る火宮には、どんな言葉も届きそうになかった。 「今でも死の真相は謎のままなんだ」 「え…?」 「事故か、自殺か、殺人か」 「え…」 穏やかでない単語が耳に届き、思考が固まる。 「聖をやったのは、俺が1度喧嘩に勝った、俺を恨んでるやつらの仕業だった」 「っ、それって…」 「あぁ。俺には何度しかけても勝てそうにないから、やつらは俺の側にいた聖に目をつけた。俺とつるんでいた聖をボロボロにしたら、少しは俺が悔しがると思ったらしい。腹いせも含んでいただろう。あわよくば人質にして、俺を呼び出し、聖を盾に俺をサンドバッグにしたかったみたいだな」 「ひど…」 そういう世界は知らないけれど、それが正気の沙汰でないことくらいは分かる。 「だが聖は俺を呼ばなかった。当たり前だ。俺たちの間に連絡手段はない」 「え…」 「だから呼べなかったのか。本当は呼びたかったのかどうなのかさえも、今となっては分からないけどな。だけど聖は1人で、俺の知らぬところで、数人の男たちにそのビルで暴行された」 「っ…」 その恐怖と苦痛を想像したのか、火宮の身体が少しだけ熱を持った気がした。 「暴行による外傷ですでに死んでいたものを、やつらが隠蔽のために投げ捨てたのか…頭も殴る蹴るをしたらしいから、それで意識が朦朧としながらも、どうにか助けを求めようと動いてフラリと落ちたのか」 「っ…」 「それとも性的暴行を苦に、自ら飛んだか」 「なっ…」 「穢されてたんだよ。あいつらはっ、聖にレイプまでしていたんだっ…」 ギリッと鳴らされた奥歯の軋みが、火宮の忘れきれない怒りを伝えていた。 「死因は不明のまま、転落死ってことだけで片付いた。でも、それが事故でも自殺でも殺人でも…俺が聖を死なせたことには変わりない」 出会わなければ、馴れ合わなければ、むやみに喧嘩をしていなければ、恨みを買っていなければ…。 尽きない火宮の後悔が苦しくて、俺は何も言葉が出なかった。 「真相は知りたい。けれど聖は2度と話すことはない。だからあの日…俺は柄にもない感傷を浮かべて、あのビルに上ったのさ」 「え…」 そのビルって。 不意にもたらされた火宮の言葉が、一瞬の戸惑いとなって俺の耳を通り抜けていった。 「ふっ。翼、おまえが命を投げ打とうとしていたあの日。あの日は、十数年前に聖が死んだ日…聖の命日だ」 そっと身体を離して、そっと向きを変えて。じっと俺を見下ろして、少し可笑しそうに、けれどとても切なそうに放たれた火宮の声が、静かに俺の心に着地した。 「あの日はたまたま近くで仕事があって。たまたま早く終わって時間が空いた」 「っ…」 「おかげで柄にもなく感傷を浮かべてみせて、たまたま寄れる近さにあったあのビルの屋上に向かった」 それはたまたま、高さがちょうど良さそうで、誰にも迷惑がかからなそうだと俺が選んだあのビルで。 「少しだけ空に近く。少しだけ聖の側へと」 「っ、ぁ…」 「天でも見上げて問いかけてみようかと足を踏み出したそこに」 地を見下ろして足を踏み出した俺が。 「偶然と呼ぶにはあまりに出来すぎていて、だからと言って運命と呼ぶにはあまりに安っぽい」 「っ…」 「だから翼、俺はおまえは聖からの挑戦状だと思った」 「挑戦状…?」 「目の前で消えようとしている命、今度はちゃんと助けて見せろと。そこから溢れ落ちてしまう前に、おまえのその手で救って見せろと…」 その意味は…。 「おまえが死なせた僕の代わりに、この少年の命、拾い上げて生かして見せろと。俺は聖に導かれ、挑戦的に叩きつけられたんだと思った」 「っ!」 だからいきなり見ず知らずの俺を拾った? 「気づいたときには腕を引いていた」 「っ…」 「馬鹿みたいに呆けた顔をして、自分を幽霊だとほざく」 「あ、れは…」 「俺にとっちゃまさしく亡霊だ。聖が死んだ同じその日に、同じ死に方で命を失おうとしているガキなど」 ククッと笑う火宮があのとき俺を通して何を見ていたのか。 「飛べない翼。俺はおまえを、聖の代わりに生かしていこうと思った」 「っ…」 「聖が寄越したこの命に、生きる意味を与えてやろうと考えた」 そうして俺は拾われて、こうして俺は生きている。 スゥッと頬を伝った涙の感触が、それをさらに実感させた。 「それが…やっぱり聖の呪いだったのかもな」 静かな声で、火宮の最後の懺悔が始まった。

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