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第99話
コンコン。
「失礼します。翼さんをお連れしました」
何のプレートもない扉の向こう。
ノックの返事を待たずにドアを開けた真鍋に促され、俺はその部屋の中をそっと窺った。
「来たか。入れ」
広々とした室内には応接セットのソファとテーブル、キャビネットにはファイル類がたくさん並んでいて、正面奥には大きな執務机と立派な社長椅子。
ブラインドが下ろされた窓は、昼間ならさぞ燦々と光が差し込むだろう。
「へぇ。日本刀とか飾ってないんだー」
ヤクザの事務所の部屋といえば…と、ドラマや映画で見るような物騒な部屋を想像していた俺は、ついうっかり呟いていた。
「相変わらずおまえはな…」
ククッと可笑しそうに喉を鳴らした火宮が、社長椅子をキシリと軋ませ、来い来いと手招きしている。
「ん?え?」
「ククッ、表向き、ここは組事務所と看板を掲げてもいないし、ごく普通の社屋ってことになっている。外観も内装も普通の会社と変わりないに決まっているだろう?」
特に気分を害した様子もなさそうに、火宮は笑っている。
「強面のおにーさんたちはたくさんいましたけどー」
普通の会社員と言うにはかなり無理がある男たちを思い出しながら、俺は火宮の側に足を向けた。
「ぷっ、本当、だからおまえは面白い」
火宮の間合いに入った途端、伸びてきた火宮の手に腕を取られ、グイと引かれた。
「うわっ、と…」
火宮の力に引っ張られるまま、トスンとその胸の中に倒れこんでしまう。
椅子に座った火宮に乗り上げるような形になってしまいながら、そのままギュッと抱きしめられた。
「はぁっ。相変わらず翼さんには甘くていらっしゃる」
不意に、そういえば後ろにいたんだった真鍋を、その声で思い出した。
「別に俺は甘やかしているつもりなどないぞ」
「どこがですか。そのような暴言、他の者が口にしようものなら、瞬時に切ってお捨てになるくせに…」
「ククッ、翼にだって、過ぎる暴言には仕置きを与えているぞ」
な?と愉悦を含んだ視線を向けられても、何と返事をしていいのやら。
「はぁっ。でしたら、早速仕置きしていただきましょうか?」
「何だ。何かやらかしたか?」
「ご報告申し上げます。翼さんですが、本日、出しておいた課題の確認に参りましたところ、1ページもなされておらず、完全に勉強をサボられたようで」
「っ!」
この鬼真鍋っ!
淡々と何チクってくれてるんだ…。
火宮の腕の中でビクッとなりながら、俺はそっと火宮の顔を窺った。
「ククッ、今日くらい大目に見てやれ」
楽しげに瞳を揺らした火宮はどうやら俺の味方のようで。
ホッとした俺は、今度はチラリと真鍋に視線を向けた。
「はぁっ、会長がそう甘やかされるのが目に見えていたから、勉強に関しての弛みは私がお咎めすると申しましたものを…」
「おまえに任せたら、鞭で1ダースも打つことになるじゃないか」
「それくらいなさらないと懲りられないご性格のようですので」
スゥッと細めた目で睨んでくる真鍋が怖い。
それ以上にサラリととんでもない台詞が聞こえてきたのも怖すぎる。
鞭って!1ダースって!
「ククッ。確かに学習能力の低さが気になる部分はあるが、鞭はやり過ぎだろう」
そこまで馬鹿じゃないよな、と頭を撫でてくる火宮の手が心地いい。
「そうおっしゃるから、私も譲歩して、翼さんの仕置きは会長にご報告の上、会長からきっちり咎めていただくよう身を引きましたものを」
「その譲歩が、鞭を使わず平手だったら最低でも百叩きってのはどうなんだ?」
「なっ…」
厳しすぎるよな?と笑う火宮だけど、チラリと窺った真鍋の目は、譲りません、と強い光を宿して、口元だけが笑んでいる。
「や、だ…」
まさか火宮がそれを受け入れはしないよな?と不安になりながら、俺は気づけば縋るような目を火宮に向けていたらしい。
「ククッ、いい表情をする。見てみろ、真鍋。翼にはこの程度の脅しで十分だ。可愛いだろう?」
クックッと喉を鳴らして愉悦に瞳を揺らしながら、スルリと頬を撫でてくる。
そのサディスティックなオーラと意地悪な口調にゾクリと全身が震える。
「はぁっ。可愛いかどうかはさておき、確かに苦痛は大変お嫌いのようですが」
「ふっ、おまえの好みからは外れているからな」
「……会長。ですが、翼さんは会長の正式なパートナーになられたお方。あまり甘い顔をなされ過ぎるのも如何なものかと思います」
不意に真面目なオーラを纏って目を軽く伏せた真鍋の言葉は、真剣な進言だった。
「甘い顔ね…」
「今後、翼さんのなさる振る舞いが、会長の評価を左右する1つになられるのですよ?会長の選ばれた、会長の本命であるというお立場、翼さんにはきちんとご自覚いただかなくてはなりません」
え…。俺?
いきなり俺にチラリと向いた真鍋の視線は鋭く、真剣そのものだった。
「っ…」
「ですから会長が翼さんの暴言を放置なさるのも、甘やかし過ぎるのも、お2人のためにはならないかと…」
あぁ、そうか。
火宮さんが連れている俺を見て、火宮さんの人を見る目が評価されるのか…。
「っ、俺…」
下手な振る舞いをしたら、そんな俺を選んだ火宮の株が下がるってことで。
それはとても責任重大な気がして、何だか緊張してきてしまった。
なのに。
「ククッ、翼はそのままでいい」
「っ、火宮さん?」
「会長!」
ふわりと頭を撫でてくれた火宮の手が優しくて、一瞬にして緊張が解れていく。
「ふっ、真鍋だって、このままの翼を気に入っているくせに」
クックッと楽しげに喉を鳴らして目を眇める火宮に見られ、真鍋の顔が多少ばつが悪そうに歪んだのが見えた。
「私は…」
「俺の耳に届いていないと思っているのか?」
「っ…」
何がなんだろう?
ハッとしている真鍋は分かっているようだけど、俺には2人の会話はさっぱりだ。
「ククッ、まぁ真面目なおまえらしい」
「それはっ…」
「ふっ、先ほどここへ上がってくる前に、それはそれは盛大に見せつけてきたそうじゃないか」
ここへ来る前って…。
「俺の右腕で幹部のおまえが、丁寧にエスコートし、頭まで下げて見せる相手。この子はそういう存在だ、と、翼のことを今後軽んじさせないために、見事なパフォーマンスをして見せて来たんだろう?」
火宮にクックックッと喉を鳴らして笑われ、真鍋の視線は完全にあらぬ方に逸れた。
「それは…会長のためです」
「クッ、そういうことにしておいてやってもいいけどな。でも真鍋、いくらおまえが俺のためとはいえ、気に入らない相手に頭を下げるようなやつではないことくらい、俺は知っているぞ」
「っ…」
「翼本人を気に入っていなければ、おまえがたとえ振りでも、傅いていると取られるような振る舞いをするわけがないこともな」
「会長っ!」
ニヤリと悪い笑みを浮かべて紡がれる火宮の言葉に、真鍋が珍しく声を乱していた。
「何だかんだでおまえ、翼を認めているじゃないか」
「っーー!わっ、たしが、認めているのは、会長の人を見る目ですっ」
「クックックッ、ま、そういうことにしておくか」
「っ!だから会長っ、私はっ…」
余裕の火宮と何故か焦っている真鍋。
何だか似たような光景をつい最近見たような覚えがあって、だけどそういえば、それは立場が逆だったような気がして。
「あぁ、仕返しかー」
やっぱりやられっ放しの火宮じゃないよなー、と、真鍋にやり込められていた昨日の火宮を思い出す。
「ククッ、よかったな、翼。真鍋は、俺に関わる人間の評価には手厳しいんだぞ。その真鍋が認めるとはな。さすが俺が選んだ、俺の恋人だ」
「っーー!」
や、キスは嬉しいんだけど、さすがに面と向かって恋人発言は照れる。
でも、やっぱり嬉しいから、ついつい腕は自然と火宮の首の後ろに回る。
「っ、もう、お好きになさって下さい!車を回して来ます!」
うっとりと火宮からのキスに身を委ねた俺の耳に、真鍋の完全に動揺した声と、ドアを開けて出ていく足音が聞こえた。
「クックックッ、あぁ愉快だ」
「火宮さん…」
あぁこの人、やっぱりどSだ。
離れていった唇が、心底楽しそうに弧を描き、思わず胡乱な目を向けてしまう。
「真鍋の焦った顔など、レアで面白いものが見られたな。さぁてと、じゃぁ行くか」
「ふぇ?」
行くって、どこへ?
「何だ。真鍋に聞いていないのか?夕食に連れて行くと言ってあったんだが」
「そうなんだ…」
思い切り初耳だ。
「身体も大丈夫そうだからな。今日は和懐石だ」
「っ…」
「だが、もし痛かったり辛かったりしたらすぐに言え」
ストンと膝から下ろされて、ポンと優しく頭を撫でられる。
「ん…大丈夫です」
痛みはもうほとんどないし、傷も癒えてきている。
いつまでも辛そうな顔をしないで欲しい。
「ねっ、火宮さん。懐石ってどんなです?俺、初めです!楽しみだな」
明るく、明るく。
しんみりした空気を払拭するようにはしゃぐ。
「美味いぞ。きっと気に入る」
「そうなんだー。早く行きましょ」
つられるようにふわりと微笑んでくれた火宮が嬉しかった。
ゆっくりと椅子から立ち上がる火宮の腕を取る。
「クックックッ。おまえ、偏食のくせに、食べること自体は好きだよな」
「えーと、そう、ですか?」
「食べさせ甲斐があるんだかないんだか」
可笑しそうに笑いながら、俺の力に逆らわずに引っ張られてくれる火宮の空気は、とても柔らかく甘くって、何だか俺はふわふわとした幸せに包まれていた。
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