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第716話

スゥーッ。 静かな停車音を響かせて、車がスマートに1つのビルの前に止まった。 「では翼さん、また終わりの頃にお迎えに上がります」 スッとご丁寧に後部座席のドアを開けてくれながら、深々と頭を下げている護衛の人ににこりと微笑み、俺はゆっくりと車から降り立った。 「はい、ありがとうございます。お手数をおかけしますけど、よろしくお願いします」 こちらもこちらでペコリと頭を下げれば、相変わらずギョッとしたように見開かれる目に苦笑が浮かんだ。 「あは」 真鍋あたりが見ていたら、またお小言と冷ややかな視線でも飛んでくるんだろうなとは思う。 だけど俺は、いくら俺の立場の方が上で、この人たちが当たり前の仕事をしているだけだと言われても、やっぱりそうそうスタンスを変えることは出来なかった。 「あー」とか「うー」とか言いながら、困惑している護衛の人に見送られ、俺は目の前に建つビルに足を進めていく。 後ろから「行ってらっしゃいませ」という野太い声が届くのを聞きながら、お洒落で洗練された建物内に足を踏み入れた。 『っ?火宮翼…?』 不意に、中からやってきた背広にビジネスバックを持った男の人が、すれ違い様にチラリと目を向けてきた。 「え…?」 一瞬で逸れたその視線だけれど、一瞬確かに俺を捉えていたと思うのだけれど。 知り合い…では、ないはず。 見覚えのない男に首が傾いだその瞬間。 「あー、ひ、いや、ふ、えっと、もう来たんだ?」 「あ、夏原さん。こんにちは」 ふらりと男の後ろ、奥の方から姿を見せた夏原が、曖昧な微笑みを浮かべながら手を上げていた。 「すみません、少し早かったですか?」 タタタッと駆け寄りながら、にこりと夏原を見上げる。 「んー、いや、まぁ、ちょっとだけ。でも大丈夫」 「すみません」 「いや、気にしないで。それじゃ早速だけど、上、行こうか」 にこりと微笑みながら、するりと軽く肩を抱いてくる夏原に、俺はチラリと後ろに視線を流した。 「でもあれ…」 多分夏原は、今すれ違った男の人を見送りに来ていたんじゃないだろうか。 それなのに去っていく男の人をそのままに、俺と中へ戻ろうとしている。 「夏原さん?」 「うん、いいの。大丈夫」 まるで後ろを振り向かせたくないような強引さで、スタスタと中に戻っていく夏原に連れられながら、俺はきゅぅっと寄っていく眉を自覚していた。 チラリと少しだけ隙を見て振り返ってみた後ろでは、さっきの男の人が、これまたこちらを全く振り返る素振りも見せずに、スタスタと建物を出て行っていた。 「あの、夏原さん?」 夏原に連れられるまま、エレベーターに乗り込んだところで、隣の夏原を見上げる。 「クスクス。誤魔化されてくれない?」 悪戯っぽく肩を竦めた夏原は、言葉と裏腹に、諦めの色を浮かべた目をしていた。 「ごめんなさい」 「うん、まぁ、だよね。あー、タイミング悪かったなー」 うーんと両手を頭上にあげる夏原が、参った、と言うように苦笑を向けてくる。 「さっきの、人…」 「うん。どうにか火宮翼くんの名前は伏せてみたけどね。多分あれはもうきみの顔を分かっていたな」 「一瞬、見られた気がしました」 確かに視線がただ1度、こちらに向けられたのを感じた。 「はぁっ。話は、部屋についてから」 さぁどうぞ、と、ちょうど目的の階に到着したらしいエレベーターの中から、扉を押さえて夏原がエスコートをしてくれる。 「あ、すみません。ありがとうございます」 今日から俺はここのバイトで、夏原がボスなのに。反対に気遣われてしまう未熟さに頭を下げながら、俺はそろりとエレベーターから足を踏み出した。 「火宮翼くんのお仕事は、事務所で雑務をしてもらおうと思っているんだけどね」 それがここ、と、明るく入りやすい雰囲気の入り口から、最初に見える受け付け。それを通ってデスクの並ぶ事務所エリアを見せてくれながら、夏原はそのさらに奥にある扉に向かった。 「まぁとりあえずは、こっちかな。ここが俺の部屋」 スッと開かれた扉の向こうは、明るい日差しが差し込む心地いい雰囲気の部屋だった。 「わぁ。ドラマとかで見る、敏腕弁護士さんの執務室って感じ」 「クスクス、よく分からないけど、ありがとう」 敏腕ね、と笑いながら、夏原がスタスタと部屋の最奥、窓際にドーンと構えられた執務机に向かった。 「それで、まぁとりあえずこれ」 ひょいっとデスクから1枚の書類を取り上げた夏原が、座って?と俺を手前のソファーに促しながら、自分はテーブルを挟んでその向かいになるソファーに腰を下ろす。 「あ、はい。失礼します」 「ふふ、さすが」 「え?」 「んー?そういう動作がちゃんと洗練されているなって」 「そうですか?」 あまり自覚はないんだけど。 「うんうん。まぁ、で、これ」 「契約書?」 「一応ね。勤務条件とか給与とか」 パラリと渡された紙を流し見て、俺はこくりと頷いた。 「ちょっと割が良すぎる気がしますけど…」 「うん。まぁでもそれだけみっちり仕事してもらうからね」 「こき使う?」 「そうとも言うね」 クスクスと笑う夏原が、それでも俺が、これから火宮の誕生日までに、不足なく稼げるようにと、考えてくれているのだということが分かった。 「分かりました。よろしくお願いします」 「こちらこそ」 「それで…」 「あ、やっぱりまだ忘れてくれない?」 優秀だなぁ、なんて苦笑いしている夏原は、少し俺を舐めすぎだ。 「俺、気になったことにはしつこいので」 さっきすれ違った男の人の話。忘れてないからね。 「クスクス。まぁ蒼羽会の姐さんが、そんなにチョロイとも思っていないけど。仕方がないな。ただ、あの男は特に危険というわけではないよ。あいつの正体は公安の警察官」 嘘も誤魔化しもしないよ、と両手をホールドアップの姿勢にして、夏原が悪戯っぽく目を細めた。 「警察官?」 え…。それにしてはあまりそんな感じはしなかったっていうか。 いやそれより警察って…。 「まぁ能貴や火宮会長からしたら敵、だろうけれど。俺には一概にそうとも言えないっていうかね」 パチリとウインクしてみせる、夏原の笑顔は決して澄んだものではなかった。 「ふふ、蒼羽会が、組対にマークされているのは知っているよね?」 「あ、はい」 「実は公安もね。会長のところから、隙あらば情報を抜きたくてしょうがないみたいなんだよね」 クスクスと笑い声を上げる夏原はなんとも楽しげで、だからこそその笑みはどこか黒い。 「火宮翼くん、きみは、公安警察と呼ばれる彼らが、協力者というものを管理しているのは知っている?」 「え?あ、はい。なにかで聞いたことがあります」 公安の監視対象に反発している人間とか、金で動く者、弱みがある人間なんかを誘って、自分の手駒にするって話。 「そう。じゃぁ、あいつらがそういう名目で、使える人間を獲得して、情報収集や工作に利用しているっていうのも分かっているよね?」 「はい」 え?待って。じゃぁそれって、もしかして…。 「ふふ、やっぱりきみは賢い。なんて回転の速い頭」 さすがだね、と笑う夏原は、どう足掻いても清廉潔白な弁護士ではなかった。 「まぁ、蒼羽会の顧問なんてしてるわけですもんね…」 「クスクス、まぁね?」 それは褒め言葉かな、と笑う夏原の目が、スゥッと細められて、悪だくみをするときの火宮と同じような色の光を放つ。 「打診…というか、俺のところに探りが入ったのは、まぁ妥当なところだよね」 「そうでしょうね…」 「でも、俺が能貴のためにならないことをするわけがない、絶対に」 そこで火宮と言わないのが、夏原が夏原であるところだ。 「ははっ、ですね」 「まぁだけど、逆は全くそうじゃないって話」 「それは…。はぁ。ただれてる…」 「ふふ、大人の世界なんてそんなもの。俺は、能貴のためになることだったら、なんだってする」 「で、その公安警察官とやらを、逆スパイに仕立て上げてしまった、と」 「ビンゴ」 やっぱり賢い、なんて笑っている夏原の笑顔は、正面から見ればただただ明るく綺麗だった。 「実はあいつは法学部時代の同期なんだ」 「へぇ、そうなんですね…」 「だから、あいつが真っ直ぐな正義感だけで警察官になったわけではないことも、金とか地位とか甘い話に弱いってこともよーく知ってる」 「うわぁ…」 「俺を利用するつもりで近づいてきたあいつだけど、たっぷり利用させてもらっているのはこちらの方」 「夏原さん…」 うん。黒い。真っ黒だ、その笑顔。 「ふふ、ネズミの送り込みが得意なのはお互い様ってことで」 ぱちりと飛ばされるウインクを、俺はとんでもなく疲労した苦笑で跳ね飛ばした。 「能貴たちには内緒だよ?」 はい、これ。と差し出される書類は、ここで雑務につくにあたっての、守秘義務やらなんやらの宣誓書で。 「ここで知り得た一切の情報を…?」 「そ。まぁ、能貴はそれなりに俺の裏のつてやら情報網やら子飼いのペットを把握してはいるだろうけれど」 「はぁ…」 「俺の手札をすべて見せるわけには、能貴にだっていかないんだ」 「夏原さん…」 「俺は俺でこの世界の中を渡り歩いて行かなきゃならないからね」 ふふ、と軽やかに笑って見せる夏原だけれど、この人もまた、真鍋のためだけに踏み入れた世界の中は、深い闇なのだと知れた。 「さてと。そうしたら、さっそく今日の仕事だけど」 こっち、と、執務室のドアを開けた夏原が、事務室に顔を出し、1人の男の人を呼んだ。 「火宮翼くん、これ、うちのパラリーガルの1人で岡田くん。岡田くん、こちらが今日からうちでバイトに入る火宮翼くん」 「よろしくお願いしますっ、火宮翼です」 「どうも、こちらこそよろしくお願いします」 ペコリと頭を下げる岡田と呼ばれた男の人は、とても真面目でいい人そうだ。 「火宮翼くんは、この岡田くんについて…まぁ、コピー取りとか資料探しとか、そういう仕事が主になると思うけど」 「はいっ」 「パラリーガルの助手って感じで、まぁ適当に頑張って」 「は…いや、適当って。ちゃんとお役に立てるように頑張ります」 どんな雑用もどんとこいだ。 「ふふ、ついでに暇があったら、どんどんうちの仕事を見て回って構わないからね」 「えっ…」 「きみ、法曹の実務とか、法律に興味あるでしょ?」 クスクスと何もかもを見透かしたように笑う夏原には、火宮や真鍋と同じように、敵わないなぁと思う何かを感じた。

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