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第717話

それから順調に夏原のもとで放課後バイトをする生活が続き、今日も今日とてたっぷりとこき使われて帰ってきたマンション内で。 「えっ?火宮さん?」 「ククッ、どうした、驚いて」 「あっ、いや、今日は早いんですね」 ドキリと変な感じに心臓を弾ませながらも、俺は、リビングでグイッととネクタイを緩めていた火宮に笑みを向けた。 「あぁ。そうだな。このところ忙しくて日付けが変わる前に帰れることは稀だったが、今日はな」 早く上がれた、って。それにしても早すぎないか? だってまだ、俺がバイトから帰って来てすぐだ。7時にもなっていない。 「ククッ、おまえは夏原のところで勉強の帰りか」 熱心だな、と笑う火宮には、どうやら俺たちの企みはバレていないようで。 「はい。真鍋さんも年末に向けてすごく忙しいみたいですからね」 その体で、俺の家庭教師は年末まで夏原にタッチした、ということにしてあるのだ。 もちろん火宮がこのところ帰りが遅かったのも、真鍋の工作に違いない。 『なにせ火宮さんのスケジュール管理をしているのは真鍋さんだしね』 「ん?翼?何か言ったか?」 テクテクと、ジャケットを脱ぎながら自室に向かおうとしていた火宮が、不意に振り返って首を傾げた。 「えっ?いえっ、何も!」 危ない、危ない。 思わずうっかり口を滑らせてしまうところだった。 慌ててへらりと愛想笑いを浮かべた俺に、火宮は薄く目を細めながらも、「そうか」と呟いて、自室へ消えていった。 「はぁっ、セーフ。……だよね?」 ドキドキと、火宮が消えていった書斎のドアを見つめながら、暴れる鼓動を落ち着ける。 俺も着替え、と思いながら、寝室のドアに向かって足を進めたところで、カーディガンに着替えてきた火宮が書斎から出てきた。 「うわ」 「なんだ」 「いいえー、別に。ただ、ルームウェアでもおしゃれで格好いいのって、何なんですかね」 本当、顔とスタイルがいいってのはずるい。 「ククッ、そうか」 「っ、っ!」 あぁ、そのニヤリとした嬉しそうな顔。 ヤバイ。俺ってば文句のつもりが無意識に、火宮のことをべた褒めしちゃってた。 ハッとしてサッと目を逸らし、足早に寝室のドアに飛びついた俺は、にやついた火宮の顔を振り払うように頭を振って、ドタン、バタンと褒められたものではない雑な態度でドアを開閉し、急いで寝室に駆け込んだ。 「もう、俺、何してるんだ…」 火宮の視線がなくなったところで、ハァッと息を吐き、ドアに凭れてズルズルと床に座り込んでいく。 「あぁっ、もう、ムカツク。いっそ誕生日プレゼント、最近流行りのもっこもこのあれ、しかも超可愛いやつプレゼントしてやろうか」 ………。 思わずそれを纏った火宮の、部屋着パーカー姿を想像してしまう。 「………」 あ、ムカツク。 「それすら着こなしそうな気がする…」 なんなのだ、あの男は。 勝てない…と脱力しきりながら、俺はゆらりと立ち上がり、部屋着のパーカーにのそのそと着替え始めた。         * そうして出てきたリビングで。 今から夕食作りか、と思いながらダイニングを通り過ぎようとした俺は、ドーンとご立派な重箱が2つ、ダイニングテーブルの上にセットされていることに驚いて足を止めた。 「え…?」 「ククッ、たまには店屋物もいいだろう?」 「え、いや、店屋物って…」 この出で立ち、この匂い。しかもお重の隣に並んだのが肝吸いに見えると来たら、もう中身の想像なんてあれしかない。 「まさか、うな重?」 「ふっ、嫌いじゃないだろう?安心しろ、老舗うなぎ店の青うなぎのうな重だ」 「は?や?え?」 いや、それ、どこの何に安心するの。 青うなぎって言ったら、幻のうなぎとか言われる、これ1つ何万するんだっていう代物なんじゃ…。 「美味いぞ」 「はぁ…」 そりゃ、そんなのがまずいわけがなくって。 「気に入らないか?」 「えっ?あ、いえっ、そんなことは!嬉しいです」 美味しいものは嫌いじゃないし、こんな豪華な夕食に文句をつけるなんてこと、あるわけがない。 ないんだけどね…。 「……」 ジッとダイニングテーブルにつこうとしている火宮を見つめてしまう。 「ん?」 はぁっ。 「いえ」 にこり、と笑って、「お茶淹れます」とキッチンに向かった俺に、火宮はのんびり頷いている。 「はぁっ…」 まったく、この超ど高級嗜好。こんな男に、俺の付け焼刃なバイト代で、一体何をプレゼントすればいいんだか。 望めば何でも手に入る。馬鹿みたいに高い経済力を誇るこの男に、俺が出来る贈り物って。 はぁぁぁっ。 まったく頭を悩ませる案件だなぁ、なんて思いながら、俺は手元でパパッとお茶を湯飲みに入れて、火宮の待つダイニングに運んだ。 「どうぞ」 「あぁ。翼も早く座れ」 「はいっ」 ふふ、だけど、こうして頭を悩ませながら、あれでもない、これでもないって、火宮に贈るものを選ぶ時間も、楽しくて幸せだから、悪くないか。 「ふっ、どうした、にやにやして」 「へっ?え?あ…」 うわ、やばい。顔緩んでた? 目を細めて、スゥッと俺の内心を見透かすような火宮の目に晒されて、俺は慌ててパパッと表情を切り替えた。 「いえっ、うな重、すっごく美味しそうな匂いがするなぁ、って思ったら」 誤魔化し笑いを浮かべて息を吸い込んだら、本気でじゅわっと口の中に唾液がいっぱい広がった。 「ククッ、そうか。では冷めないうちに食べるとするか」 「はいっ」 パカッと蓋を開けた火宮に倣って、俺もそろそろと蓋を取れば、途端に艶めくうなぎ様のご登場。 「うわぁ、やっばい…」 じゅるるっ、と滴りそうな唾液をごくりと飲み込み、俺はつやつやのふっかふかな鰻の、たまらなく香ばしく食欲をそそるタレの匂いに、とろりと目を蕩けさせた。 「ククッ、うなぎでイくなよ?」 「はぁっ?なっ、俺はっ、そんな変態じゃ…っ」 もう、超いいところなのに、何を言い出すんだ、バカ火宮。 「クッ、そうか?随分とイき顔に近い、恍惚とした表情をしていたが?」 「っな…」 いや、それは、確かにうっとりはしちゃったけれども。 「ふっ、今夜はうなぎでたっぷり精をつけて、励むとするか」 「っーー!だからっ、そういう下ネタっ…このエロオヤジ…じゃなくって、あー、あはっ、聞いちゃいました?」 「ククッ、なるほど、仕置きセックスをお望みか」 「言ってませーーんっ!」 だから、あぁっ、もういやだ…。 せっかく極上のうなぎを目の前にどうしてこうなる。 全くもってばっちり通常運転の火宮様だ。 「ククッ、せいぜいへばらないように、しっかり精をつけておけ」 冷めるぞ、と示された、目の前の極上のうなぎ様は、黙って俺に食べられるのを待っている。 そうだ、このお方に罪はない。 「精がどうのは知りませんけどっ。いただきますっ!」 ふわり。 あぁっ、なにこの箸通り。 思い切り突き刺した箸の感触に、もうヤバイ以外の言語が吹き飛び、語彙力完全崩壊だ。 「やっばい…」 これ、絶対美味しいやつ。 火宮じゃないけど、ある意味イく。本気でイく。 「あぁぉぅ…」 そろり、と運んだ1口目。 ぶわっと襲い来る美味しいの嵐に、俺は多分、またもうっとりと目を緩ませたんだろう。 「ククッ」 その顔、と笑う火宮の目が、優しく嬉しそうに、そしてやたらと柔らかく愛を含んでいたから、俺はなんだか3倍も4倍も幸せな気持ちになった。

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