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第105話
翌日。
仕事に行く火宮を見送り、朝食の後片付けを済ませた俺は、リビングのテーブルの前に座って、頭を悩ませていた。
「うーん…サイン、コサイン、タンジェント…って、なんだこりゃ。なんの呪文だ。はぁ?この角度がー?」
わからない。
さっぱりわからない。
「だーめーだ」
教科書の説明を読んだところで、一向に理解できず、俺はポイッとペンを放り投げた。
だらーっとソファに背と頭を預け、両足を投げ出す。
ボーッと天井を映す目が、ゆっくりと重くなる。
「ふぁぁーっ…」
まだ課題は半分も終わっていないのに。
このまま寝たら、大変なことになると頭では分かるのに。
鞭とか、百叩きとか…怖い。駄目だ…。
だけど身体はズルズルと、眠りの世界に引き摺られていく。
「ん…」
ガチャ。
「失礼します…」
「っ?!」
突然開いたドアと、入ってきた人の気配に驚いて、眠りかけていた頭が一気に引き戻された。
「あ、すみません。お休みになるところでしたか」
「あー、いえ。寝ちゃいそうだったからよかったです」
恐縮しながら入ってきた浜崎が、壁際の床にドサッと大きな箱を置いた。
「なんか荷物ですか?」
「はい。生活雑貨と、米っすね」
「お米!ちょうどもうすぐ切れると思ってたんです」
「あー、会長のご注文っす。きっと気づいて先回りー…」
「浜崎さん?」
言いながら、スーッと気まずそうに逸れていく視線は何なのか。
ほんのり頬まで染めている。
「や、いやぁ…独り身には刺激が強いっていいますか…」
「へ?」
一体何を狼狽えて…。
わけがわからない。
だけど、浜崎の視線がチラチラと向いているのが俺の首元だということには気がついた。
「首が何か…」
「本当、伏野さん、愛されてるっすね」
ちょうど重なってしまった言葉が、うまく聞き取れなかった。
「え?」
「いえ…その、き、キスマーク…」
照れたように言われた単語が、今度ははっきり聞こえてきた。
聞こえたのと同時に。
「きっ、キスマークっ?!」
驚きのあまり、完全に声が裏返ってしまった。
そんなもの、つけられた覚えがない。
「ふ、伏野さん?」
「いつの間に…。もしかして寝ている間?」
人の知らぬ間に何してくれてんだか。
「どうせ俺がこうやって気づいたときに動揺するのが面白いと思ってやったに決まってる」
あのどSが。
思わず文句が口をつく。
「伏野さん?」
「本当、意地が悪いんだから…」
「え?それって、会長がっすか?」
あ、やばい。
火宮信者の浜崎の前で、火宮の悪口みたいな発言はまずかったかも。
目を丸くした浜崎の前で、俺は慌てて手を振った。
「や、いや、それはですねっ…」
「はぁ。やっぱり伏野さんはすごいっすねー」
「は?え?」
「あの会長と対等どころか、ちょっと上から渡り合ってるっていうか…」
え?ここ、尊敬どころ?
浜崎の反応がさっぱり理解できない。
「オレらなんて畏れ多くてとても。そもそも会長が意地悪とか、そんな姿すら知りませんよ。やっぱり伏野さんに見せる顔は別物なんすねー」
「そうなんですか?」
「そうっすよ。会長は、クールで無表情で、感情を出されることも全くと言っていいほどないし」
それ、誰のことだろう…。
「あの、笑い上戸で意地悪でどSの火宮さんが?」
「笑い上戸?!会長がっすか?あの方、笑うんすかっ?!」
「そりゃ…」
「へぇぇぇ…」
何でそこで驚いたような感心なんだ。
一体部下たちの見てる火宮はどんな生き物なのか。
まるで人間味を感じない。
「火宮さんは、普通に笑うし、怒るし。人を揶揄うのと苛めるのが好きで、ベッドでなんか、そりゃもう意地悪…ッ!」
やばい。
ついうっかり、俺は何を暴露しているんだ。
思わず情事にまで言及しかけた滑る口を慌てて押さえて、俺は誤魔化すように目の前にあった教科書に手を伸ばした。
「そっ、そんなことより、浜崎さんっ!」
「なんすか?オレ、もっと伏野さんが知ってる会長のレア情報、知りた…」
「それよりっ!こっちです!勉強!浜崎さん、三角関数って分かりますかっ?」
バサバサと教科書を開き、グイッと浜崎に向かって突き出す。
「はぁ、三角関係?誰の話っすか?え?まさか、会長と…はっ、まさか、真鍋幹部?え?お2人が伏野さんを取り合い?いや、会長を真鍋幹部と伏野さんが?」
どこからそうなった。
「あの…」
「お、オレはっ、真鍋幹部も尊敬してるっすけどっ、そこはやっぱり、会長のご意向が最優先といいますかっ…」
「だから違…」
「あぁぁ、でも真鍋幹部と会長が反目し合うのもまずくって…」
「あの、浜崎さん…」
「すみませんっ、伏野さん!オレ、何とも答えられないっす!」
ガバッと深々頭を下げられても…。
「すんません。聞かなかったことにしますっ!」
「や、あの、ちょっ、待っ……」
バタン、ドタンとドアが開け閉めされる音が派手に響いた。
「だから違うって…行っちゃったし」
なんなんだ、もう…。
後に残されたのは、勢いに呑まれて固まった俺と、勘違いされ虚しく開かれたままの教科書だった。
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