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第121話

そうして、風呂から上がってきたら、火宮の姿はもうリビングにはなかった。 多分書斎だろうと思って、俺は気にせず寝室に向かう。 「ふーっ…」 ベッドに倒れこみ、大きく伸びを1つ。 火宮のせいで微妙にサイドチェストが気になる。 どうせいかがわしい道具の宝庫なんでしょ。 チラッと向けてしまった視線が、ついつい鋭くなる。 「今度、火宮さんがいない隙に、全部捨ててやろうかな…」 物騒な考えが頭をよぎり、けれどもすぐに思い直す。 「なんて…そんなことした日には、それこそ何でどんな目に遭わされるか…」 どSで意地悪で俺を虐めるのが大好きな火宮を思い浮かべる。 「っ…」 怖…と思ってしまった俺に、チェストの中身を処分する勇気はなかった。 そうしていつの間に眠ってしまったのか。 気付けばカーテンの裏は明るく、火宮が出掛ける時間になっていた。 「うわっ!もう朝…」 早っ、と思いつつ、慌ててベッドを飛び降り、玄関に走る。 ギリギリセーフで、火宮が出社して行くところに間に合った。 「あ、っと、おはっ…その、い、いってらっしゃい…」 ヘラリと笑った顔を、火宮が苦笑して見てくる。 「また派手な寝癖だな。別に無理に見送りなどしなくても」 寝ていていいぞ、と笑ってくれる火宮だけど、そこはそれ。 「だ、って…」 悪いっていう遠慮がないわけじゃないけど、1番の本音はただ俺が見送りたいだけ。 「ククッ、これか」 「え?」 ぐいっといきなり引き寄せられたかと思ったら、次の瞬間にはもう唇が火宮のそれで塞がれていた。 「んっ、んーっ…」 「ククッ、行ってくる」 強引にキスを奪っていった火宮の唇が、緩く笑みの形に弧を描いて、チラリと赤い舌が覗く。 「朝からっ…」 濃厚すぎだ、ばか、という苦情は言葉にはならず、代わりに睨みを効かせてやる。 「なんだ。涙を浮かべてそんな熱い視線を送って。誘っているのか?」 は? 「っー!バカ…」 「ククッ、その暴言は仕置きの催促か」 あぁ、もう誰かこの人なんとかして。 朝っぱらから頭が沸いている火宮に呆れたところに、ふと本気で救世主が舞い降りた。 「社長、お戯れはそこまでで。時間です」 クールを通り越して、歩く冷凍庫。 今日も相変わらず表情のない真鍋が、スッと玄関のドアを開けて火宮を促した。 「ふっ、わかった。翼、いい子にしていろよ」 いい子って…。 はいはい、と思いながら、おざなりに手を振った俺を可笑しそうに見て、火宮が悠然と玄関を出て行った。 「………」 「………」 え?なんで? 火宮が消えて行った玄関扉。 その内側に、何故か真鍋が佇んでいる。 「あの…」 てっきり火宮に同行していくかと思ったのに、まさかもしかして、こんな早くから家庭教師か? 戸惑いが伝わったのだろう。 小さな苦笑が真鍋の顔に広がる。 「勉強ではありません。少しお時間よろしいでしょうか」 「え、あ、はい…」 勉強じゃなきゃ、何の用だ。 説教?それとも火宮に関する何か?何か…。 って、何か! 「そうだ真鍋さんっ!」 「なんでしょう」 「酷いじゃないですか…この間」 「この間?」 何のことだ、とシラッとしている真鍋に、一瞬苛立ちが湧いた。 「とぼけないで下さいっ。火宮さんに密告るなんて…。メール!」 「密告?あぁ、翼さんが私を誘惑なされた件ですか」 「なっ…だからっ、俺は誘惑なんてっ…」 まったくこの人は何を言い出すんだ。 「会長にお叱りを受けましたか?」 「っ…」 そりゃもう。 あなたのせいで、俺はあんな、あんな…。 「ふっ、しっかりと躾けていただけたようで」 俺の表情から何を読み取ったか、満足そうに口元を緩める真鍋が憎い。 俺の方はそれこそ不満爆発だというのに。 「っ…真鍋さんのせいでっ…」 「それは違います」 「っな…」 「あなたが会長のイロであられるという自覚が足りないからです」 イロ? キョトンとなったのが顔に出たんだろう。 「あぁ、我々の世界では、情人または恋人のことをそう言います」 「はぁ…」 で、その恋人の自覚が足りないからって…。 十分自覚しているつもりなのに。 「そのご不満な表情が、甘いというのですよ」 「は?え?」 「あなたは会長のイロ。あの蒼羽会会長が、ついにそれと定めた本命に、どれだけの価値があるかお分かりですか?」 俺の価値? そんなの…。 「まぁ分かっていらしたら、そもそもあの様な振る舞いをなさるわけがありませんね」 だから一体何だというのだ…。 「はぁっ。ここ数日の傍迷惑な噂話も、あなたの振る舞いのせいですよ」 「噂話?」 「うちの事務所内に広まっている、会長と翼さんと私が三角関係にあるという」 「へっ?」 あ、まさか浜崎さん…。 勘違いをしたまま誰かに漏らしたか。 「そこへ来て、あなたが会長の部屋から泣きながら飛び出してきて、私の胸に縋って泣いていればですね…」 あー、その根も葉もない噂話に花を咲かせてしまうわけで。 「ついに昨日、会長のお耳にも入ってしまい…」 「あっ、だから昨日はあんなに不機嫌で…」 「不機嫌?会長がそれを露わに?」 え?と目を丸くしている真鍋に、俺の方が目が丸くなった。 「そうですけど…」 「ふっ、やはりあなたは…」 「な、何ですか…?」 意味深に笑った真鍋の意味は分からなかった。 「ご寵愛結構。ですがだからこそ、翼さんにはきっちりとご自覚いただきたい」 「え…」 「あなたが望む望まないに関わらず、あなたへの興味関心、注目は、あなたが思うよりずっと高いという事です」 「はぁ…」 「そしてそれは同時に、あなたの利用価値の高さにも繋がります。決して安易な振る舞いで、隙をお見せ下さいませんよう」 俺に、利用価値が…? 「あなたは火宮刃の恋人、伏野翼であると同時に、蒼羽会会長の本命、でもあられるのです」 個人と公人ってこと? 難しいけど、何となくわかる。 火宮は一個人であるけれど、それは多くの人間の上に立つ、公な1人でもあるのだ。 「ですから窮屈かとは思いますが、本日の用向きは、これがメインです」 「え?」 「池田、及川、入れ」 スッと無表情になった真鍋が、不意に玄関扉の外に向けて、鋭く切れるような声を放った。

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