125 / 719
第125話
ドクン、ドクンと脈を打つ心臓を宥めながら、どれほど火宮の腕の中でじっとしていたか。
ほんの数秒が、何分にも感じ始めたその時。
ふと、火宮の腕の力が緩んだのを感じた。
え?
「実園」
ピンと張り詰めた冷淡な声が聞こえたと思ったら、次には火宮の腕から完全に力が抜けていた。
「下がれ」
「「はっ」」
2人の部下に命じた声が聞こえ、スッと男たちの姿が消えていく。
そっと身体の向きを変えた俺は、護衛がいなくなったお陰で見えるようになったその場所に、1人の男が立っているのを見つけた。
「ご無沙汰しております、火宮会長」
深々と一礼した男は、30代半ばくらいの、やけにスマートな男。
長めの黒髪を首の後ろで軽く結び、黒のスーツに黒シャツという姿をしている。
「ホスト?」
コツ…。
「え?あっ!」
軽く頭を小突かれて、俺はうっかり口を滑らせていたことに気がついた。
「狭霧のところの若頭、実園だ」
ポンッと宥めるように頭に火宮の手が乗り、サラッと何やら紹介らしき声が聞こえた。
「は?え?」
狭霧って?若頭って?
実園…というのが名前だということはかろうじて分かるけど。
「………」
「な、なんですか?」
ジッといきなり見下ろされても…。
「あの…?」
「だよな。うちと…蒼羽会と実園のところは、七重組の直参。七重組というのは、うちとそいつのところの上位組織だ。要は同系列の同格の組の若頭…っていうのは、まぁ組長の跡目筆頭候補だ。つまり組のナンバー2」
「真鍋さんと同じ?」
「……少し違うが、まぁようはそこそこ偉い人、だ」
俺風に言ってくれたのか。
とりあえず同業者さんで、火宮よりは立場が下で、だけどそれなりの地位の人で、仲間、ということか。
敵でないのなら、やたらと怯える必要はなさそうだ。
「えーと、初めまして。伏野…」
「おい」
「ん?」
「簡単に気を許すな。名乗るな」
え。だって紹介したのは自分でしょ…。
「ったく、俺は、実園はヤクザだ、と説明したぞ」
「はい。火宮さんとおんなじグループの組の偉い人ですね」
「………」
「え?」
「おまえがヤクザと聞いて怯まないことを忘れていた。ったく…」
軽く髪を掻き上げた火宮から、壮絶で気怠い色気が放たれた。
「ッ…。お噂は、本当なんですね…」
ふと、一礼した後、じっと目の前にいた実園が、思わずといった様子で呟いたのが聞こえた。
「ふっ、だとしたら何だ」
「いえ…。誤魔化されないのですね」
「おまえに対して今更だろう」
やけにつっけんどんな火宮は、何だか普段俺が見ている火宮ではないみたいだ。
冷ややかで冷徹な空気を纏う火宮は、少し遠く感じる。
「そちらの方を俺に紹介するのでなく、先に俺をそちらに紹介なされましたからね。その方のお立場は、十分分かりました」
下から上に。
立場の低い方から先に。
そのビジネスマナーは、ヤクザ界でも同じか。
「って、え?俺はただの貧乏な一般人で…」
火宮の恋人だけど、それは別に俺の地位が高いわけじゃなくて…。
「翼、少し黙ってろ」
「うっ、すみません…」
話をかき混ぜてしまったか、スッと火宮の後ろに下がらされてしまった。
「ご紹介はしていただけないのですね」
『ふん、この狸が』
「火宮会長?」
「察したのなら、十分だろう?つまり俺は今、プライベートということだ。食事も済み、早くこいつを可愛がりに行きたいところだ。アポもなく、いきなりこのような形で足止めをくらい、少々不愉快だぞ」
ちょっ…可愛がりにとか!
また何ていう発言を、と思いながら、俺は火宮のスーツの上着をクイッと引いた。
「ん?そうか、早くホテルに行きたいか。だ、そうだ、実園。下がれ」
「ばっ…」
何でそういう解釈になるのか。
ついイラっときた俺は、思わずドスッと肘を入れていた。
「………」
やば…。
顔を見なくても、火宮が妖しくニヤリと笑ったのが分かった。
「ッ!…珍しい場所で、珍しい連れとご一緒のところをお見かけして、声をかけてみて良かった」
「ふん」
「報告書を読み、未成年の堅気の少年、と聞いたときにはまさかと思いましたが…」
どうしよう。多分、完全にスイッチ入れちゃった…。
「表情を浮かべ、俺よりその方を優先なさるあなたが見られるとは」
「ふっ」
「本当に、そちらが」
今から謝ったら少しはマシになるかな…。
「1つ教えてやる」
「火宮会長?」
「これの存在は、俺にとって強みでしかない」
「ッ…」
「何のためにこれのことを探り、こうして近づいてきたかは知らないが」
あぁ、もうこの場からバックれたい。
「ッ、本当に、ただの偶然で。何の策略もっ…」
「まぁいいさ。忠告はした」
「ッ…しかと」
「翼」
はぁぁっ、本当、どうしよう。
「翼、行くぞ」
ん?
「え?はっ?」
「どちらへ参りましょう」
「ホテルだ」
「かしこまりました」
あれ?いつの間に車が?
っていうか、実園さんはどうしたんだろう。
完全にぼんやりしていた俺は、全く状況についていけていなかった。
「クックックッ、逃避の算段か?」
「や、いや…」
「安心しろ。逃さない」
いや、だからそれのどこが安心…。
「今日は生半可で済むと思うなよ?」
うーわ、完全にどSモード。
キラリと光った火宮の瞳が妖しい。
「暴言に加えて、手が出たからな」
「っ…」
たっぷり仕置きだな、と、運転手に聞こえないような声で囁かれ、ヒッと引きつった俺の顔が、バックミラーに映った。
ともだちにシェアしよう!