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第140話
「あの…」
「どうした?」
「その…」
黙り込んでしまった組長さんのせいで、沈黙が重くて。
俺はクイクイと火宮のスーツを引いていた。
「ん?あぁ、おまえに紹介も忘れていたか」
「へっ?」
「正面に座っているその人が、七重組組長、俺がオヤジと呼ぶ人物だ」
いや、それはもう分かっているけどね。
そうじゃなくて。
「そこの影みたいに付き従っているのが鬼頭専務理事。組幹部の七重組ナンバー2」
そういえば、さっきから一言も発しず、微動だにしない壮年の男が、組長さんの斜め横に座っていた。
「専務理事?」
「組長の片腕みたいなものだ。組長の代行もできる立場。うちでいう真鍋と似たような立ち位置だ。ちなみに最初に出迎えてくれた中条というのが若頭。ナンバー3」
「ほぇぇ…」
なるほど。
じゃなくて!そうでもなくって!
「あのっ、俺はですね…」
「火宮」
不意に、固まっていた組長さんが、重々しい口を開いた。
「何ですか?」
「少し外せ」
「………」
ピシリとした命令に、火宮の顔が一瞬歪む。
その目が少し心配そうに、俺と組長さんの間を行き来した。
「悪いようにはせん」
「手出しも無用ですよ?」
「ふん。堅気の子どもに、俺がするか」
「分かりました」
スッと軽く目を伏せた火宮が、スルッと俺の身体を離した。
「え?え?」
「翼。俺は少し、向こうで鬼頭さんと仕事の話をしてくる」
「え…」
「その間、オヤジの話し相手をしていてくれ」
そんな…。
まだ顔を合わせたばかりの、超お偉いさんと、2人きりに?
不安が顔に出たんだろう。
宥めるようにポンと頭に乗った手が、優しく何度か髪を撫でた。
「大丈夫だ。おまえは、俺が選んだ男だぞ」
「っ、はい…」
「素のままでいればいい」
「分かりました」
コクンと頷いた俺を見て、火宮は鬼頭と目配せをして退室していく。
後に残された俺は、同じくその場に残ったままの、組長さんをそっと見つめた。
ドキン、と鼓動が高く鳴る。
一体何を言われるのか、緊張から喉が渇いた。
「翼くん、と言ったな」
「はい」
「火宮の、情人か」
「っ、はい。お付き合いさせていただいています」
カチンコチンの言葉が、ぎこちなく俺の口から漏れた。
「ふははっ、お付き合いか」
「あ、えと、同棲?もしてますけど…」
ワタワタと言葉を重ねたら、組長さんが可笑しそうに目を細めた。
「火宮が好きか?」
「はいっ!すごく」
「あれの過去を知っているか?」
「はい…聞いていると思います」
1部だけど、でも組長さんのいう『過去』というのは、『あのこと』だろうという気がした。
「どう思った」
「どう…そうですね…」
一言ではとても言い切れない、だけど敢えて言うのなら。
「とても、愛おしいと」
自分の中で一番しっくりくる言葉を紡いだら、組長さんの目が軽く瞠目した。
「愛おしい?」
「はい。火宮さんは、誰より自分が弱い、弱いと言いますけど…その弱さを厭って、弱い自分を憎んで、もがいて、足掻いて、誰より優しい強さを持ったんです」
「怖くはないのか。恐れはしないか?」
組長さんの言葉を軽く飲み込んでから、俺はゆっくりと首を振った。
「火宮さんは、その手が深く汚れていると言うけれど…俺は、それも含めて火宮刃だと思います。それも含めた火宮さんが、誰より何より愛おしいんです」
自然と笑みが浮かんでしまった顔は、どんな風に組長さんには映っているのだろう。
生意気だろうか。惚気た馬鹿だと見下されるか。
嫌悪や拒絶じゃないと嬉しいけれど。
「誰から見て、正しくなくても、間違いでも。俺は、今ここにいる火宮刃が、ただただ愛おしい。傷も、罪も、すべて引っくるめて、火宮刃という人を、ただ愛しています」
もしも火宮が地獄に落ちるというのなら、俺は迷わず共にいく。
火宮の罪を赦す俺が罪だというのなら、笑って地獄にダイブしてやる。
「翼くん、きみは、とても、強いな」
「え…?」
「強くてしなやかで、優しく、気高い」
「俺が?」
何だかやけにすごい人に聞こえるんだけど、多分俺はそんなんじゃない。
「あぁ。火宮がきみを、手にした理由がよく分かる」
「はぁ…」
「あれがきみに惹かれ、きみを愛したわけが、よーく分かった」
えーと?
「眩しいよ」
「え…?」
「闇に住む我らの目を眩ませて、影さえ見せないほどの輝きを持つきみが」
「はぁ」
よくわからないけど、褒められてる?
「俺に怯まず、真っ直ぐ俺の目を見て話すきみは…きっと火宮がいつまでも怯えている、火宮の危惧する闇に捕らえられてしまうこともない」
「えっと…」
何だかやけに穏やかな空気を纏い、うんうん、なんて勝手に納得している組長さんに、俺は戸惑うことしかできない。
「翼くん」
「は、はいっ」
「火宮は、きみを大事にしてくれるか?」
「はい、とても」
それならば、自信たっぷりに頷ける。
「そうか」
「はい」
力強く頷いた俺を見て、組長さんが突然スッと居住まいを正した。
「翼くん」
「は、はい」
つられてビシッと背を伸ばした俺は、何を言われるのか身構える。
「火宮と…」
「はい…」
「火宮と、出会ってくれてありがとう」
「えっ…」
ヤクザの頂点の本当は怖いはずの組長さんの目が、優しく優しく綻んで、俺はただただ目を丸くした。
「あ、の…?」
「きみになら、火宮の心が移ろっても、少しも悔しくは思わない」
「く、みちょう、さん…?」
「あれは一生、昏い心をして、死にゆく瞬間まで1人でいるものと思っていたが…ようやく巡り会えたか」
な、に…?
「火宮をよろしく」
「っ!」
えーっ?!
頭…。こんな偉い人が。組長なんていったら、それこそ人に頭を下げるようなことなんてあるはずのない人が、俺なんかに、頭を。
「や、や、やめて下さいっ」
「ふふ、翼くん」
「は、は、はいっ」
「これは、七重組組長としての言葉じゃない」
「はい?」
「火宮の…そうだな、お節介な世話焼き親父としてとでも受け取ってくれればいい」
あぁ、この人も…。
俺とは違う形なんだけど、火宮さんのことをとても愛してくれているんだ。
「火宮を、よろしく」
幸せにしてやってくれ。
そう聞こえた優しい言葉に、俺は目一杯の笑顔を浮かべた。
「幸せになります、一緒に」
「ッ…あぁ」
皺の刻まれ始めた穏やかな顔が、くしゃりと歪んで、目に光る小さな雫が見えたような気がした。
俺はそっと目を伏せて、ただ静かに畳の目を見つめた。
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