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第141話
静かで居心地のいい沈黙がわずかに流れ、ふと、組長さんが身動いだ音がした。
「さてと、翼くん」
「はい」
「きっとそろそろ、火宮が痺れを切らして戻ってくる頃合いだろう」
ふふ、と笑う組長さんの目が、何だかとても悪戯っぽい。
「さっきの火宮の嫌そうな顔」
「え?」
「まさかあの火宮が、あぁも独占欲を露わにして、きみの前では清々と表情を動かすとはな」
「はぁ…」
なんかそれ、前に他の誰かにも言われたような気がする。
「わずかな間でも、きみと離れるのが惜しいような顔をしていたな。ましてや俺と2人きりにするのがすごく嫌そうだった」
「そう、ですか?」
「日頃から感じないかね?」
「うーん、確かに、独占欲っていうか、嫉妬深いっていうか…部下と仲良くしたー、ってだけで、怒ることはありますけど」
それで何度か酷い目を見た。
「そうか、そうか。まったく愉快だ」
「えっと…」
「なぁ翼くん」
「はい?」
「もしも、火宮のことで何かあったら、遠慮なく俺に言うといい」
「組長さんに?」
何かって、愚痴とか?
「あぁ。これでも一応、火宮のことは良く知っているつもりなのでな。ついでにまぁお互い形だけとは思っているが、周囲への体面もある。立場を利用して俺に命じられれば、火宮は断れる立場にはないぞ」
ニヤッと楽しそうに笑う組長さんの言葉は、半分本気で、半分は冗談なのだろうと分かった。
「じゃぁ、火宮さんがもし悪さをしたら、組長さんに言いつけて、お灸を据えてもらったらいいですね」
パチッと片目を軽く瞑りながら、悪戯っぽく切り返す。
「あぁ。火遊びをするような歳でも男でもないが、もしも、のときはな」
「ふふ、覚えておきます」
「あぁ。ところで翼くん。その、組長さんという呼び名はどうにかならないかな」
え?それって…。
「きみは極道に入るつもりではないのだろう?」
「はい、まぁ…」
その極道の頭と付き合ってて違うというのもなんだけど。
「なら、俺はただのおじさんだ。名で呼ぶといい」
「えーと、七重さん?」
「七重宗一だ」
「や、いや、でもさすがに…」
下の名前は無理がある。
火宮も普段は苗字で呼んでいるものを、七重さんだけ名前呼びなんてしてみろ…。
「何故だ」
「えーと、俺の身の安全のため?」
「ふっ、ははははっ。火宮に妬かれて叱られるか?」
「えぇ、多分、はい」
「なんてな。それが俺の魂胆なんだが」
ニッ、と悪戯っぽく笑う七重さんは、まるでやんちゃな子どもみたいだ。
「俺を名で呼ぶきみを見て、固まる火宮が見たいのに」
「いやいや、固まった後、俺がどうなるか分かりますかっ?!」
きっと難癖つけられて、夜が大変なものになるに決まってる。
「ははっ。あれは少々、嗜虐嗜好なところがあったか」
「少々じゃないですよ。本当もうどSですよ」
「ふははは。それでも好きか」
スゥッと目を細めて可笑しそうに瞳を揺らす七重さんは、何だか意地悪をするときの火宮に少し似ている。
「う、あぅ…それは、そのぅ…」
「ははっ、きみは被虐趣味か」
相性ピッタリだな、と笑われるけど…。
「っー!それは断じて違いますっ!」
「翼っ?!」
うっかり力説してしまった瞬間、スパァンッと襖が開いて、礼儀も挨拶もなく火宮が飛び込んできた。
「え?」
「ッ…」
「ふっ、ははははっ!なんだ、必死な形相をして」
キョトンとなった俺と、しまった、という顔をした火宮。
七重さんだけが状況を面白がるように笑っている。
「ッ、失礼しました」
「ははっ、なんだ。俺が翼くんを苛めているとでも思ったか」
「ッ、いえ…」
スッ、と表情を収めてしまった火宮が、ゆっくりと俺の側まで歩いてきた。
「こんなに可愛い子を、俺が苛めるわけがない」
「可愛い?」
ピクリと引きつる火宮のこめかみが怖い。
「あぁ。本当に魅力的な子だ。どこで見つけた」
「あげませんよ」
「答えになっとらん」
「翼にちょっかいを出す相手は、たとえオヤジでも…」
わー、久々に出た。
意味深なところで言葉を切る脅し。
「ふはははっ、おお怖。そう睨むな」
「翼、来い」
来いと言いながら、すでにその腕に引き寄せ、抱き込まれている。
「オヤジと何を話していた。どうやらタラしたらしいことは分かるが」
「タラしたって、俺は別に」
「意地悪なことは言われていないか?」
火宮さんじゃあるまいし、とか言ったらお仕置きだろうな。
「別に」
「本当に?」
って、七重さんに失礼だよね、その質問。
「だから、特に意地悪をされては…」
「じゃぁどんな話を…」
「んー、内緒です」
秘密にしたいというよりは、何だか少し恥ずかしい。
「おまえ…」
「こら火宮。あまり翼くんを困らせるな」
「七重さん…」
助け船をありがとう。
「七重さんだと?」
ピクッと震えた火宮の腕が、ギュッと抱き寄せる力を増した。
「宗一と言ったら断られた」
「オヤジ?」
「だから、そう睨むな」
面白い、と笑っている七重さんと、機嫌が急降下していく火宮が怖い。
間に挟まれた俺は、何だかヒシヒシと嫌な予感か押し寄せ、ゾクリと身体が震える。
「もう用は済んだ。帰るぞ、翼」
「まぁ待て。膳を用意している。食べていけ」
「………」
「俺のもてなしを断れるわけがないよな?火宮」
「チッ…」
この上なく凶悪な視線と、派手な舌打ちが七重さんに向く。
「ははっ、翼くん、食事の席で、火宮の昔懐かしい思い出話を色々と聞かせてやろう」
席は隣でな、と手を伸ばされて、俺はどうしていいかわからない。
「翼は俺の隣に決まっているでしょう?」
グイッと七重さんから隠すように引っ張られた身体がフラついた。
「なんだ、ケチ。おまえはいつでも食事を共にできるじゃないか」
「だからって、こいつを貸し出す理由にはなりません」
グイッ、グイッ、と、何だか知らないが、俺の取り合いが始まった。
「火宮」
「なんですか、オヤジ」
「わっ、うわわわっ…」
「余裕のない男は嫌われるぞ」
「そちらこそ、横槍は不粋ですよ」
「のわっ、うわっととと…」
あっちへ、こっちへと振り回されて、目が回ってきた。
「中条!俺の膳は、翼くんの隣だ」
「っわ、とと…」
「中条、俺が、翼の隣だ」
「うわぁっ…」
何なんだ、この人たち…。
これが名だたるヤクザの頂点に君臨する男と、その中で最上位に位置する一組織のトップの男か。
その名が聞いて呆れる。
これではただのおもちゃの取り合いをする子どもじゃないか。
「はぁっ、オヤジ。オヤジが右隣。火宮会長が左隣。それでご両人、納得を」
命を受けてサッと控えた中条が、1番穏便な妥協案を提示してきた。
あぁ、マトモな人もいてくれた。
スッと準備のためか下がっていった中条にホッとする。
だけどホッとしたのも束の間で、今度は膳の席が設けられた部屋へ移動する道すがら。
な、なんでこうなった…。
右腕を掴んで離さない火宮と。
左隣に並んでピッタリついて歩く七重さんに挟まれて。
3人横並びになったところで狭いわけではない廊下なんだけど、何故か俺はかなり窮屈に、廊下を移動することになった。
七重さんの本拠地で、こんなただの一般人の子どもが、その七重さんと並んで歩いちゃいけないんだろう。
廊下の先々で向けられる周囲の視線が痛い。
「っ…」
こちらは?と思って、そぉっと見上げた火宮の目は、『今夜は仕置き決定』と語っていた。
あぁぁぁっ、なんでこうなった!
俺の虚しい心の叫びが、聞くもののない廊下に音もなくこだました。
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