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第146話

夜、7時過ぎ。 ガチャッとリビングのドアが開く音がして、俺はソファの上からそちらを振り返った。 「あっ、火宮さん。お帰りなさい」 「あぁ」 軽く顎を引いた火宮は、感情の読めない無表情で、テクテクとリビングのソファまでやってくる。 「雑誌か。買ったのか」 俺の手にあった料理雑誌をチラリと見て、火宮はドサッと俺の向かいのソファに腰を下ろした。 「あ、はい…」 別にそれ自体は悪いことをしているわけではない。 欲しいものがあったら好きに買えと、常日頃から火宮には言われている。 だけど何となくギクリとしてしまったのは、これを買ってきた本屋での一件があるせいか。 「ほぉ、料理雑誌か。何だ。俺に美味いものでも食わせてくれるのか?」 何の雑誌かを認識したらしい火宮が、ふと表情を緩めて、いつもの癖のある笑い声を立てた。 「ククッ、最近はあまり夕食までには帰れていなかったからな。いない間に腕でも磨いたか?」 楽しそうに目を細める火宮の機嫌は悪くはなさそうだ。 「あの、えっと…」 まさか聞いていないなんていうことがあるのだろうか。 もしかして、真鍋が止めてくれている? 「どうした?」 変な顔をしてしまっていたんだろう。 火宮の気遣うような目が向く。 「あっ、いえ、腕…腕はですねっ、どうでしょう?でもレパートリーは増やそうかなって」 「ふっ、そうか。翼、来い」 足を大きく開いて、その足の間を示す。 「っ、は、い…」 唐突だけど…。口でしろってこと? 急な命令が理解出来なかったけど、俺はスッとソファから立ち上がり、火宮の前に行った。 そのまま床に跪こうとした瞬間。 「何してる。こっちだ」 パッと腕を取られ、グイと引き寄せられてしまい、俺はフラリと火宮の上に転びそうになった。 「っ、わ…」 「ククッ、華奢だな」 クルンと身体を軽々回され、火宮の足の間に、火宮に背中を預ける形で、ストンとソファに座ってしまう。 「え…」 「ククッ、翼。おまえは、俺の、何だ?」 ギュッと後ろから抱きしめるようにしながら、火宮が上半身の体重をグターッとかけてくる。 「な、に、って…」 「主従か?所有者と所有物?」 「違い、ます…っ、あ!」 「ククッ、そうだろう?恋人だろう」 ぎゅう、と腕に力を込めた火宮が、仕置きだ、と言わんばかりに意地悪く、レロッと耳の穴を舐め上げた。 「ひゃぁっ…ごめっ、なさい」 「ふっ、新しい料理を覚えたら、俺に1番始めに食わせろ。その日は何が何でも早く帰る」 ククッと笑いながら、甘い甘い台詞を紡ぐ。 「っ、初めて作るものなんて…自信ないですよ」 ゾクゾクッとなったのは、火宮が耳元で囁くせいだ。 「ククッ、恋人の手料理は、何だって美味いものさ」 「っー!もう、何壊れたこと言ってるんですかっ」 どSのくせに。 時々こうして甘々なのがズルい。 「あぁ、好きだなぁ…」 思わず漏れてしまった想いは、うっかり口に乗っていて。 「ククッ、可愛いことを言う。翼。俺は、おまえを、大切にしたい」 チュッと頭の上に落とされたリップ音と、優しく温かい言葉にハッとして、後ろの火宮を振り返った。 「っー!火宮さんっ」 「なんだ」 「俺っ…俺」 「あぁ。今日、会ったそうだな。元同級生か」 やっぱり聞いてた。やっぱり知ってた。 なのに頭ごなしに切り出して来なかった火宮の想いを感じる。 「はい…。高校の、同じクラスだった、女子です」 「真島冴と言ったな。少し調べさせるが…気を悪くするか?」 この火宮が。 俺様何様火宮様が。 やけに遠慮がちに尋ねてきて、俺は思わず目を見開き、フルフルと首を振った。 「火宮さんのいる世界では、仕方がないことだって分かっています」 「そうか」 近づいてくる人間全てを疑ってかかって、その接近に裏がないか調べ尽くす。そうして信用が置けるまで安心できない。 それはとても寂しいけれど、そうしなければ守れないものもある世界。 火宮がいるのは、そんな世界だ。後悔してからじゃ遅い。 「まぁ報告が上がる前におまえに聞くが。元カノってやつか?」 横向きに俺を抱き直した火宮が、スッと目を細めて俺を見る。 「はっ?」 思わず素っ頓狂な声が出た。 「何だ、違うのか」 「えっ?違いますよ。ただの友達です」 どこからそんな話になる。 「名で呼び合っていて、親しそうだったと」 「あー、浜崎さん?」 主観って怖い。 「名前は…俺なんてマスコット的な愛称ですし、うちのクラス、男女分け隔てなく、やたらと仲が良かったんですよね。なんか、高校生にしてはちょっと幼いかもなんですけど、和気藹々とじゃれ合ってる感じっていうか…」 思い出の中の高校生活は、まだ中学の延長のようで、それでいて新しい仲間たちと、ワイワイ楽しくやっていた記憶だ。 「おまえはきっと、人の輪の中心にいたんだろうな」 「どう、だったかな…」 まぁどちらかといえば賑やかなグループの中にいて、常に周囲には何人ものクラスメートがいて、囲まれていたけど。 「モテただろう?」 「俺が?まさか」 プッ、と思わず笑っちゃうくらい、俺にはそんな甘い話はなかった。 「そうなのか?容姿もいいし、性格だって悪くない」 「ははっ、容姿は…なんか愛でられるっていうか、男扱いされないっていうか…それこそ可愛いだとか、翼ちゃんだとか揶揄われはしたけど…」 惚れてもらえるようなものじゃなかった。 「ふむ…」 「性格はよくわからないですけど、なんていうか、つーは優しくて好きなんだけど、彼氏って感じじゃないんだよねー、みたいな。何度言われたかわかります?」 「なるほど。いるな。いい人止まりの、異性とも友情を成立させてしまうタイプ」 まったくね。 「まぁ翼の魅力は、ガキには分からんか。ふっ、むしろ分かってたまるか」 「あはは。俺は、火宮さんにだけモテていたら、それでいいです」 俺のどこがいいのかいまいちよくは分かっていないけど、火宮がいいって言う俺がいい。 「クッ、言うようになった。なぁ翼、懐かしいか?」 「っ、まぁ、そう、ですね」 「戻りたいか」 「っ…」 ビクリと震えてしまった身体は、きっと触れている火宮にも伝わった。 「っ、俺、は…」 「翼?」 「一度、死んだ身です」 「翼…」 伏し目がちになって、だけど言葉は続ける。 「あのとき全てを諦めた。あのとき全てを捨てたんです。友達だった人たちのことも、俺は…」 「翼」 「っ!俺には、火宮さんに生かしてもらって、今があるけどっ…本当は、2度と会うことがなかった人たちです。2度と会えるはずのなかった人たちなんですっ。そう、諦め、俺は選んだ」 だから、だから俺は、今更戻りたいと、あの日々を取り戻したいなどと、言えない。言うわけにはいかない。 「翼」 「っ、俺は…」 そうでなければ、あの時の覚悟が。 あの時選んだ道が、答えが、間違いだと思わされてしまう。 「俺は全てを捨てると決めて、あそこに立った」 後悔はない。 だけど揺らがないわけじゃない。 「だから、戻りたく、ありま、せん…」 ギュッと拳を握り締めた俺を、火宮は優しい微笑みで受け止めた。 「無理をするな」 「っ、無理なんか…っ」 「生き長らえた命だ。欲だって願望だって、当たり前のように出てくる。当たり前なんだ、それでいい」 「っ、でもっ…」 死を選ぼうとした自分を否定したくない。 「おまえを無理矢理生かしたのは俺だ。おまえの選択は間違っていない。その上で、今のおまえがある」 「っ…火宮、さんっ…」 なんでそんな風に、俺をピンポイントで掬い上げるんだ。 「新たに得た生だ。あのとき死のうとしていたおまえがいたから、俺はおまえと出会えたんだぞ」 「っ…」 「だからおまえは堂々と望んでいい。懐かしい過去の思い出も、諦めた友との再会も」 正しい、ときっぱり告げる火宮が、あまりに強くて優しくて。 「っ、ズルい…」 格好よすぎて、頼もしすぎて。 スゥッと目から伝い落ちた一粒の雫は、温かくて少ししょっぱかった。

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