160 / 719

第160話

パァンと頭の中で何かが弾ける。 震える唇が、ゆっくり笑みを形作って、首は自然と左右に振れた。 「ごめん」 ヒュッと息を飲んだサエの表情が、グシャリと歪んだ。 「ごめん、俺は、サエを選ばない」 綺麗に澄んだ真っ黒い瞳。 昔の俺ならきっと惹かれた。 「ごめん、俺は、サエの気持ちには応えられない」 だけど俺は、もう見つけてしまった。 どんなに昏く、濁りきった世界を映していても。 その中で足掻いた証の残る漆黒の瞳が好き。 「愛した人がいる」 「っ…」 「その人以外は考えられない」 「つー!」 「たとえ同性でも、たとえ世間から後ろ指を差される存在でも、たとえそれが、誰に過ちだと言われても」 俺にはただの1人だけ。 「火宮刃がいい。火宮さんしかいらない」 他の誰も選ばない。 愛しい愛しい人の姿を思い浮かべながら、はっきりきっぱり言ったとき、ふと今頭に描いた人の姿が、そっくりそのまま道の先から歩いてきた。 「え?幻覚?」 「ククッ、何を呆けた顔をしている」 ゾクリとするような黒いオーラ。 真鍋と池田を従えて、ダークスーツの火宮が悠然と立ち止まる。 「翼」 「っー!何で?」 「迎えに来た」 ニヤリ。 何を企んでいるのかわからない妖艶な笑みを、火宮が浮かべる。 「迎えって…」 唖然となった俺にククッと喉を鳴らし、その目がスイッとサエに向かう。 「っ!」 「ふぅん、これが噂の『サエ』か」 「ちょっ、火宮さんっ?!サエには…」 手出ししないで、と叫ぶ前に、火宮の口が先に開く。 「翼に告るとは中々見る目がある」 「はぁーっ?」 ちょっと待った。何で知ってる? たった今来たばかりに見えたけど、実は隠れて聞いていたのか…と辺りを見回したら、浜崎が非常に申し訳なさそうな顔をして、スマホ片手に手を顔の前で合わせていた。 スパイいたーっ! そうだった。 あの人は火宮のところの構成員で、俺の益不利益は二の次に、火宮の利益最優先で動くんだった。 「ちょっ…」 「それに中々度胸もある」 「っ!」 「だが残念だったな」 「ちょっ、何をっ…」 ぐいー、といきなり腕を引かれ、ふらりと立ち上がった身体が、トンッと火宮の胸に抱き寄せられてしまう。 「これはすでに俺のものだ」 「うわっと…ちょっ、火宮さんっ?!」 サエの視線が突き刺さる。 ギュッと噛み締められた下唇が痛々しい。 「誰にもやらん、諦めろ」 うわー。俺様何様火宮様。 サエの表情がギュッと歪んでクシャクシャになっていく。 それでもその目は真っ直ぐに、俺と火宮を見返した。 「ヤクザですよね?」 うわ、サエ?! ザッと動いた真鍋と池田に気づいて、俺はギクリとなった。 だけど火宮が軽く手を上げてそれを制する。 「構わん。今回限り、どんな無礼も許してやる」 「「はっ…」」 スッと下がる真鍋と池田にホッとする。 「そんなんで、つーを幸せにできるんですかっ?」 「誓おう」 っ!何をサラリと…。 「つーは…つーには明るい世界が似合うっ。何で、何でヤクザなんですか。何であなたなんですか。つーを裏社会に引きずり込んで、あなたはつーを…」 「責任は取る」 違う。 思わず叫ぼうとした俺を、火宮がギュッと強く抱き込んで制してきた。 「っ…?」 「責任って何ですか!結婚とでもいうつもりですか?あなたもつーも、男です」 「そうだな。だが、たかが紙切れ1枚の保証がなんだ。1つ、俺は翼にかける金に糸目はつけない。そして将来、それ相応の財産を残そう。経済的に困窮させることはしない」 「っ、ヤクザのお金です」 「ふっ、翼に使う金は、合法的に正規の方法で稼いだクリーンな金だ」 サエの顔がギュッと歪む。 「っ、でも…」 「2つ。俺は翼を決して手放さない。誰より何より幸せにして、一生翼1人を愛し抜く」 「っ…」 「こいつの笑顔を何からも誰からも守り、決して悲しく辛い思いはさせない」 「っ…口では何とでも…」 ギュッと歯を食いしばりながらも、サエが必死で食い下がっている。 目にいっぱい涙を溜めて、震える足を踏ん張って。 「そうだな、道理だ。ならば差し出そう」 「っ、会長、何をっ…」 「火宮さん?」 「会長っ…」 ダランと全身から力を抜いて、ふとサエの手首を取った火宮が、自分の胸にその手を触れさせた。 「もしも俺がその言葉を違えたのならば、この鼓動、おまえが止めて構わない」 っ! それは、それはあまりにも強い、身を焦がすように熱い火宮の想い。 「命を賭けて愛してる…?って、こと…?」 ふらりと手を下ろし、よろよろと足を引いたサエが、ボロボロと大粒の涙を目からこぼした。 「わか、ってた…。つーは誰かに流されて、自分の道を選ぶような人じゃない」 「サエ…」 「つーも同じくらい、この人のことが好きなんだね」 「うん」 命を賭けて。 俺も、それこそ。 ポタッと地面に染みを作った涙は、サエのものだろうか。 「フラれてんですよ、あたし。つーはあなたしか愛してないって。悪足掻きしてごめんなさい」 「クッ、構わん」 「試すようなこと言ってすみませんでした。でも、こんなに、こんなに真剣に答えてくれて…」 分かっていただろうに、と微笑むサエの泣き笑いは、とてもとても綺麗だった。 「こんな子どもに。いくらでも誤魔化せるようなあたしに。相手にする必要なんかなかっただろうに…誠心誠意答えてくれたあなたは、本当にそれだけつーを愛してくれているんですね。負けました」 「ククッ、ふん」 偉そうに鼻を鳴らす火宮は、なんだか穏やかな目をしていた。 「さよなら、つー。大好きだった」 「サエ…」 「幸せになんなきゃ許さないから」 「うん、約束する」 「火宮さんも。つーを泣かしたら、あたしが必ず一発殴りに来ます」 「ククッ、それは怖いな」 ヤクザなのに。 「負けるよ、サエ。やめといたら?」 「っ、んもう!それくらいの気持ちってこと!」 「あはは、ありがと」 パッと顔を上げて、涙を振り払って、サエがポケットからスマホを取り出す。 「番号、消すね」 「っ、あ…」 「うん、大丈夫。分かってるから」 「ん、っ…」 「あたしたちを守るため。もしものときに、あたしたちを巻き込まないようにって、つーはあたしたちと縁を切るんでしょ?」 ごめん。ごめん、サエ。 コクンと頷いた首は、せめてもの謝罪の気持ち。 「そういう優しいところも好きだった」 「っ…」 「思いやりに溢れるつーが好きだった」 「サエっ…」 「バイバイ、つー!」 ピピッと小さな電子音が鳴り、画面に見えた『消去しました』の文字。 「バイバイ」 明るく大きく手を振って、サエは踵を返して駆けていく。 強く、清く、明るく一直線な、自慢の友達だった人。 『さよなら…』 2度と振り返らないその背中に、長くて綺麗な髪がサラサラと揺れていた。

ともだちにシェアしよう!