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第160話
パァンと頭の中で何かが弾ける。
震える唇が、ゆっくり笑みを形作って、首は自然と左右に振れた。
「ごめん」
ヒュッと息を飲んだサエの表情が、グシャリと歪んだ。
「ごめん、俺は、サエを選ばない」
綺麗に澄んだ真っ黒い瞳。
昔の俺ならきっと惹かれた。
「ごめん、俺は、サエの気持ちには応えられない」
だけど俺は、もう見つけてしまった。
どんなに昏く、濁りきった世界を映していても。
その中で足掻いた証の残る漆黒の瞳が好き。
「愛した人がいる」
「っ…」
「その人以外は考えられない」
「つー!」
「たとえ同性でも、たとえ世間から後ろ指を差される存在でも、たとえそれが、誰に過ちだと言われても」
俺にはただの1人だけ。
「火宮刃がいい。火宮さんしかいらない」
他の誰も選ばない。
愛しい愛しい人の姿を思い浮かべながら、はっきりきっぱり言ったとき、ふと今頭に描いた人の姿が、そっくりそのまま道の先から歩いてきた。
「え?幻覚?」
「ククッ、何を呆けた顔をしている」
ゾクリとするような黒いオーラ。
真鍋と池田を従えて、ダークスーツの火宮が悠然と立ち止まる。
「翼」
「っー!何で?」
「迎えに来た」
ニヤリ。
何を企んでいるのかわからない妖艶な笑みを、火宮が浮かべる。
「迎えって…」
唖然となった俺にククッと喉を鳴らし、その目がスイッとサエに向かう。
「っ!」
「ふぅん、これが噂の『サエ』か」
「ちょっ、火宮さんっ?!サエには…」
手出ししないで、と叫ぶ前に、火宮の口が先に開く。
「翼に告るとは中々見る目がある」
「はぁーっ?」
ちょっと待った。何で知ってる?
たった今来たばかりに見えたけど、実は隠れて聞いていたのか…と辺りを見回したら、浜崎が非常に申し訳なさそうな顔をして、スマホ片手に手を顔の前で合わせていた。
スパイいたーっ!
そうだった。
あの人は火宮のところの構成員で、俺の益不利益は二の次に、火宮の利益最優先で動くんだった。
「ちょっ…」
「それに中々度胸もある」
「っ!」
「だが残念だったな」
「ちょっ、何をっ…」
ぐいー、といきなり腕を引かれ、ふらりと立ち上がった身体が、トンッと火宮の胸に抱き寄せられてしまう。
「これはすでに俺のものだ」
「うわっと…ちょっ、火宮さんっ?!」
サエの視線が突き刺さる。
ギュッと噛み締められた下唇が痛々しい。
「誰にもやらん、諦めろ」
うわー。俺様何様火宮様。
サエの表情がギュッと歪んでクシャクシャになっていく。
それでもその目は真っ直ぐに、俺と火宮を見返した。
「ヤクザですよね?」
うわ、サエ?!
ザッと動いた真鍋と池田に気づいて、俺はギクリとなった。
だけど火宮が軽く手を上げてそれを制する。
「構わん。今回限り、どんな無礼も許してやる」
「「はっ…」」
スッと下がる真鍋と池田にホッとする。
「そんなんで、つーを幸せにできるんですかっ?」
「誓おう」
っ!何をサラリと…。
「つーは…つーには明るい世界が似合うっ。何で、何でヤクザなんですか。何であなたなんですか。つーを裏社会に引きずり込んで、あなたはつーを…」
「責任は取る」
違う。
思わず叫ぼうとした俺を、火宮がギュッと強く抱き込んで制してきた。
「っ…?」
「責任って何ですか!結婚とでもいうつもりですか?あなたもつーも、男です」
「そうだな。だが、たかが紙切れ1枚の保証がなんだ。1つ、俺は翼にかける金に糸目はつけない。そして将来、それ相応の財産を残そう。経済的に困窮させることはしない」
「っ、ヤクザのお金です」
「ふっ、翼に使う金は、合法的に正規の方法で稼いだクリーンな金だ」
サエの顔がギュッと歪む。
「っ、でも…」
「2つ。俺は翼を決して手放さない。誰より何より幸せにして、一生翼1人を愛し抜く」
「っ…」
「こいつの笑顔を何からも誰からも守り、決して悲しく辛い思いはさせない」
「っ…口では何とでも…」
ギュッと歯を食いしばりながらも、サエが必死で食い下がっている。
目にいっぱい涙を溜めて、震える足を踏ん張って。
「そうだな、道理だ。ならば差し出そう」
「っ、会長、何をっ…」
「火宮さん?」
「会長っ…」
ダランと全身から力を抜いて、ふとサエの手首を取った火宮が、自分の胸にその手を触れさせた。
「もしも俺がその言葉を違えたのならば、この鼓動、おまえが止めて構わない」
っ!
それは、それはあまりにも強い、身を焦がすように熱い火宮の想い。
「命を賭けて愛してる…?って、こと…?」
ふらりと手を下ろし、よろよろと足を引いたサエが、ボロボロと大粒の涙を目からこぼした。
「わか、ってた…。つーは誰かに流されて、自分の道を選ぶような人じゃない」
「サエ…」
「つーも同じくらい、この人のことが好きなんだね」
「うん」
命を賭けて。
俺も、それこそ。
ポタッと地面に染みを作った涙は、サエのものだろうか。
「フラれてんですよ、あたし。つーはあなたしか愛してないって。悪足掻きしてごめんなさい」
「クッ、構わん」
「試すようなこと言ってすみませんでした。でも、こんなに、こんなに真剣に答えてくれて…」
分かっていただろうに、と微笑むサエの泣き笑いは、とてもとても綺麗だった。
「こんな子どもに。いくらでも誤魔化せるようなあたしに。相手にする必要なんかなかっただろうに…誠心誠意答えてくれたあなたは、本当にそれだけつーを愛してくれているんですね。負けました」
「ククッ、ふん」
偉そうに鼻を鳴らす火宮は、なんだか穏やかな目をしていた。
「さよなら、つー。大好きだった」
「サエ…」
「幸せになんなきゃ許さないから」
「うん、約束する」
「火宮さんも。つーを泣かしたら、あたしが必ず一発殴りに来ます」
「ククッ、それは怖いな」
ヤクザなのに。
「負けるよ、サエ。やめといたら?」
「っ、んもう!それくらいの気持ちってこと!」
「あはは、ありがと」
パッと顔を上げて、涙を振り払って、サエがポケットからスマホを取り出す。
「番号、消すね」
「っ、あ…」
「うん、大丈夫。分かってるから」
「ん、っ…」
「あたしたちを守るため。もしものときに、あたしたちを巻き込まないようにって、つーはあたしたちと縁を切るんでしょ?」
ごめん。ごめん、サエ。
コクンと頷いた首は、せめてもの謝罪の気持ち。
「そういう優しいところも好きだった」
「っ…」
「思いやりに溢れるつーが好きだった」
「サエっ…」
「バイバイ、つー!」
ピピッと小さな電子音が鳴り、画面に見えた『消去しました』の文字。
「バイバイ」
明るく大きく手を振って、サエは踵を返して駆けていく。
強く、清く、明るく一直線な、自慢の友達だった人。
『さよなら…』
2度と振り返らないその背中に、長くて綺麗な髪がサラサラと揺れていた。
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