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第162話

その日、俺は買い物を済ませ、近くのパーキングまで、のんびりと街を歩いていた。 相変わらず、浜崎がすぐ側についてきてくれていて、いいって言うのに荷物持ちまでしてくれている。 本当、申し訳ないな…。 お使いを頼むのも気が引けるけど、自分で買いに出たら出たで、こうして荷物持ちから送り迎えまで、至れり尽くせりなのも相変わらず慣れない。 「あっ、そういえば牛乳!」 ふと唐突に買い忘れに気づき、後ろの浜崎を振り返った。 その瞬間。 ドンッ、ドンッ、ガシャーン! 激しい破壊音がすぐ近くで鳴り響いた。 「え…?」 びっくりして顔を前に戻した俺は、広い歩道の中に乗り込み、歩いていた人々をなぎ倒し、脇に並んだ店のショーウィンドウに突っ込んだ車の姿を捉えた。 しかもふらりとそこから降りてきた運転手が、逃げ惑う人にドン、ドンとぶつかりながら歩いてくる。 虚ろな目をした男だ。 え? 何?何が起こっているの…? あちこちで悲鳴が上がる。 人々がパニックを起こして右へ左へと逃げ惑い、怒声や叫び声が響いている。 俺は呆然と突っ立ったまま、何のアクションも起こせない。 「伏野さんっ!」 焦ったような浜崎の叫び声が聞こえた。 ふらふらと歩いていた男が、いつの間にかすぐ間近に来ていた。 「っ!失礼しますっ…」 ガバッと浜崎に抱き込まれた、と思ったときには、男が密着するほど近くにいて、ドンッ、と浜崎の身体が衝撃に揺れたのを感じた。 「え…?」 破壊音からたった数秒の出来事。 けれどやけに現実感のないそれは、やけに長く、やけにゆっくりと感じる。 「くっ、う、ぁ、あぁ…」 「浜崎さん?」 へへっ、と笑みを見せて、額に冷や汗を浮かべながら浜崎が俺を覗き込んだ。 同時に男が離れてまたふらふらとどこかへ向かう。 「伏野さん、無事っすね…?」 「え?はい」 何が?と思いながら首を傾げた俺から、浜崎が離れていく。 いや、俺を抱き締める力をなくして、地面にズルズルと崩れ落ちていくのだ。 「え?浜崎、さ、ん…?」 何だこれ…。 ボタボタッと地面に落ちた赤い雫。 目にどぎつい鮮やかな赤が、重なって重なって、黒に近い深い紅色の水溜りを作る。 「血…?」 それが浜崎から滴る血液だと認識した瞬間、ガクッと膝をついて座り込んだ浜崎が、呻きながら脇腹を押さえて俺を見上げた。 「この場から離れて下さ…っ、は、やく…。逃、げて…」 空いた片手で取り出そうとしているのはスマホか。 「っ!救急車ーっ!」 ハッと我に返った俺は、とにかく怪我をしたらしい浜崎に何が必要かを瞬時に判断した。 「ダメっす…逃、げて…オレは、大丈夫っす、か、ら…」 「できない!」 「伏野さ、ん…け、さつ、が、来…」 切れ切れの言葉は、いまいち何を言っているのかわからない。 ただ、見捨てろ、とだけ伝わる浜崎の言葉が嫌でブンブンと首を振る。 「浜崎さん。浜崎さんっ」 止血ってどうやるんだっけ! そもそも傷口はどこだ。 何が起きて血を流している。 分からないことだらけで、パニックを起こしそうだ。 だけど、そんなときこそ冷静に、考えろ。考えろ、俺。 「平気、っす、から…」 へへっと笑う浜崎の手から、カシャンとスマホが滑り落ちた。 『真鍋だ。どうした浜崎。翼さんに何か…』 不意に通話口から聞こえて来たのは、クールを通り越した冷え冷えとした幹部様の声で。 「あ、あ…」 半ばパニックで血が上っていた頭が瞬時に冷めていく。 『浜崎?』 「俺です、翼です」 『翼さん?』 バッと落ちたスマホを拾い上げ、血で滑るそれを必死で掴み、耳に当てて通話口に叫ぶ。 「浜崎さんが、怪我したーっ!」 助けて、真鍋さん。 助けて誰か! 『怪我?くそっ、襲撃かっ?!翼さん、場所は!』 「場所は…」 買い物に行った店とパーキングの名称を伝える。 そのとき何げなく歩道の先に向けた目に、キラッと光を反射する何かを見た。 それがカラーンと地面に落ちる。 何人かの通行人が、ふらふらと歩いていたあの男を取り押さえている。 『翼さんっ!とにかくその場を離れて、車の方へ…』 「通、り魔、だ…。浜崎さんは、ナイフで刺された…」 ようやく大まかな事態を理解したとき、いくつものサイレンが響いてきて、救急車とパトカーの赤色灯が目に入った。 『通り魔?チッ…。翼さん、すぐに及川を向かわせます、とにかくパーキングの方へ向かって落ち合って…』 真鍋の声が遠ざかる。 いや、俺がスマホから耳を遠ざけたのか。 ふらりと下がった手からカシャンとスマホが地面に落ちる。 「こっちです!怪我人っ、こっち!ここにもいますっ、早く、早く来て下さいー!」 視界に入った救急隊員に向かって、頭上に上げた両手を必死で振る。 いつの間にか浜崎は完全に地面に倒れ、その背中に近い脇腹から、ジワジワと地面にドス黒い血溜まりを広げていた。 「っ!」 脇腹を押さえる浜崎の手に滴る、真っ赤な鮮血が、異様に目に焼き付いた。

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