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第164話
「あ、あの、火宮さん…」
家に帰り着いてすぐ、聞きたいことや言いたいことがたくさんあったんだけど。
「とりあえず翼、風呂に入れ」
「あ、血…」
火宮の言葉で見下ろした服や手には、浜崎の血がついていて、乾いてしまって茶色い染みになっていた。
「っ…あ、あぁ…」
どうしたことか。
何だか今になって急に、ガクガクと全身が震えてきた。
「翼」
「あ、や、やぁ、あぁぁ…」
目の前にまざまざとあの時の光景が蘇る。
「翼、落ち着け。大丈夫だ。大丈夫」
グイッと引かれた身体が、スッポリと火宮の腕の中に収まる。
「あぁ…」
馴染んだ匂いと、優しい体温に、ホッと力が抜けた。
「あぁ、火宮さん…」
「怖かったな。無事で良かった」
「ん…。でも、浜崎さんが…っ」
俺を庇ったせいで。
「気にするな」
「っ、気に、します。だって浜崎さんは俺の代わりに…」
あの時、浜崎に抱き込まれていなかったら、刺されていたのは俺の方なんだ。
「それがやつの仕事だ」
「っ!」
平然と吐き出された火宮の言葉は、あまりに冷たく俺の心に触れた。
ビクリと身体が強張る。
「な、に、言って…」
「ん?」
「仕事って…」
身を挺してまで守ってくれたことを、そんな一言で?
「ボディーガードにつけているんだ。そんなの当たり前だろう?」
当たり前?あれが…?
「っ…」
気づいたときにはもう、ドンッと火宮の身体を押し返していた。
「翼?」
「おかしいです…」
そんなの、絶対に。
「何が。浜崎はよくやった。もし翼を庇いきれずに擦り傷1つでもつけてみろ。それこそ命はない」
クッ、と傲慢に頬を持ち上げた火宮の顔は、当然のことを当たり前に言っているだけ、といった様子だった。
「な、んです、か…それ」
「翼?」
「浜崎さんは…今も、多分重体で…。あんなに、あんなに血が出て…」
苦しそうに呻いていた姿を思い出す。
手術が終わる前に帰ってきてしまったから、浜崎が今どういう状態にあるかは分からない。
だけど楽観できないことだけは分かっている。
「あぁ。褒めてやる。なんなら何か褒美もくれてやろう」
「え…」
な、に、それ…。
「俺っ…俺は…」
感謝してもし足りない。
責任だって感じる。申し訳ない気持ちだっていっぱいだ。
「もし、もしっ、浜崎さんが助からなかったら…」
同じことが言えますか?
「それはそれで仕方がない」
「っ!」
「翼が負い目を感じる必要は何もない。気にするな」
仕方がない?
人1人の犠牲の上に守られて?
そんな風に簡単に割り切れって?
仕事だから、当たり前だ、と…。
「無理…」
俺にはあなたが分からない…。
ツゥ、と目から頬を伝った涙は、何の涙だろう。
ただ、火宮の言葉があまりに冷たくて、
火宮の心があまりに遠くて。
俺はふらりと足を引いて火宮から距離を取り、そのままパッと踵を返した。
「シャワー浴びてきますっ…」
服の袖で涙をゴシッと拭う。
その袖に、浜崎が流した血が茶色い汚れを残しているのが見えた。
「っー!」
「翼!」
呼び止める火宮の声を振り切り、俺は逃げるようにバスルームに駆け込んだ。
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