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第168話
その夜。
いつまでもいつまでも眠ることができなかった俺は、布団の中でグズグズと起きていた。
なのに火宮は、遅くになっても、日付けが変わっても、夜が明けても、隣に滑り込んでくることはなかった。
「帰ってない…?」
遅くなる、とはいっていたけど、帰らないとは聞いていない。
念のためと手を伸ばして取ったスマホにも、連絡が入っていないことを確認する。
「火宮さん?」
ギクリとして、まだ夜が明けたばかりの薄暗い室内を、そっとリビングへ向かう。
恐々とドアを開けて寝室を出た瞬間、たまたま偶然にも、書斎から出てきた火宮と出くわした。
「あ…」
「翼?早いな」
「っ…火宮さんは…」
遅いの?
それともとっくに帰っていたのに書斎で寝た?
ボタンを2、3個外したワイシャツに、スラックス姿という出で立ちからは答えが見つからない。
「どうした?眠れなかったのか?」
ジッと見つめてしまっていたら、隈が出来ている、と目元に火宮の手が伸びてきた。
「っ…」
思わず避けてしまってからハッとした。
「翼?」
「あ、いえ…」
ストンと俯いてしまった顔が、裸足の指先に向かう。
キュッと丸めた指先が見える。
「翼?」
窺うように火宮の足が1歩近づいてきたのが分かって、俺はビクリと身体を引いていた。
「翼…。俺が怖いか?」
ポツリと落ちた火宮の声が、そっと耳に触れた。
「っ、違っ…」
怖くはない。
それは本当だ。
フルフルと左右に首を振れば、フーッと長く吐き出された火宮の吐息が聞こえた。
「では嫌か」
「っ…そ、じゃ、ない…」
嫌悪かと言われれば、それは微妙に違うんだ。
またも小さく首を振ったが、火宮はハッと短く息を吐き、スッと俺から距離を取った。
「別に誤魔化さなくてもいい」
自嘲気味に吐き出された火宮の声が聞こえて、俺ははっとして顔を上げた。
火宮は自分の手を見つめて、薄く目を細めている。
「っー!違うっ…」
違うんだ、本当に。
火宮自身を嫌なわけでも、嫌悪しているわけでもない。
「俺はただ…俺は」
火宮が触れて来ようとする手から、身体が反射的に逃げていて、こんなの説得力がないかもしれないけど…。
「俺はやっぱり、浜崎さんとか護衛についてくれる人は、仕事だからとか、割り切れなくて…」
「………」
「だからちゃんと感謝とか、気持ちとかを伝えたいと思って…」
だから火宮の言うことを、上手く受け入れられないだけで。
決して火宮を疎んでいるわけではない。
「そうか。だが翼、できれば、あれらを人と思うな」
「え?」
一瞬、火宮の放った言葉の意味がわからなかった。
「あれらはそう扱われることを承知して、その役目についている」
「っ…」
重ねて放たれる火宮の言葉は、やっぱり俺の頭では理解できなくて、ただただ呆然と目が見開く。
「ひみや、さん…?」
「それに、心を砕くな」
「っー!」
非情で冷たい火宮の声だった。
「な、に、言って…」
「あれらは…」
「っ!あれら、じゃないですよね?人ですよね!怪我をすれば痛いし、血だって流れる、人ですよね、彼らは…」
「だから翼、それは…」
駄目だ。
火宮にはやっぱり届かない。
火宮の言葉はやっぱり分からない。
「何でっ、何でそんなに冷酷なことが言えるんですか…?」
「冷酷、か…」
「だってそうでしょう?!人を人とも思わずに、感謝も痛みも持っちゃいけない、誰かに代わりに血を流させて、自分がのうのうと過ごすことは…」
無理だ。
俺にはできない。
「翼」
「俺は、火宮さんのようにはなれない。人の血を見慣れて、それを当たり前だと言い放つ…」
そんなことは。
「俺は、復讐のために、人の血を流すことのできたあなたとは違う」
「………」
「他人の流れる血を見て平気でいられるあなたとは違うっ!俺は…」
はっ!
俺は、今、何を言った…?
いつもの不敵な笑みじゃない。
薄っすらと微笑んで、俺を見つめている火宮の表情に、足がガクガク震えてきた。
「っ…違っ、俺、ごめっ…」
「いいんだ、翼。謝るな」
「っ、俺…」
どうしよう。
この火宮に、なんて顔をさせてるんだ。
口から放たれてしまった言葉をこんなに後悔したことはない。
「翼」
「っ…」
「おまえに何と言われようとも、俺は浜崎の負傷は当然の責務の結果だと思っている」
「っ、ひ、みや、さん…?」
一瞬前の淡い微笑みは跡形もなく消えて、その整いきった美貌に浮かぶのは、冷たく鋭いやいばのような表情。
「これが、俺だ。おまえが文句を言おうが憎もうが嫌がろうが構わない。ただ、これが俺だ。それでも側にいたいと思うなら、この俺に、おまえが慣れろ」
「っ…」
「俺は、蒼羽会会長、火宮刃。おまえの男は、そういう人間だ」
凛として鋭く、人の温もりをわずかも感じない冷たい声と表情だった。
初めて、感じた。
この人は、ヤクザの頭だ。
いつもは優しく笑うから、ふざけたことばかりを言っているから、今まで1度も思ったことがないのに。
冷酷で非情で、触れれば切れそうな鋭さと、油断すれば呑み込まれてしまいそうな圧倒的な存在感と深い闇。
他者を威圧し、凛然と佇む孤高の王者。
「っ…」
俺は、そんな男の、恋人。
ゾクリと震えた身体は、どんな理由からのものか。
「シャワーを浴びて仕事に出かける。おまえは眠れていないようだから、少し休め」
スッと俺の横を通り過ぎ、火宮が浴室に歩いていく。
触れそうで触れられない、ほんの数センチの距離。
すれ違いざまに感じた切ない胸の痛みが、チクチクと後を引く。
パタン…。
互いに互いを振り返ることも、目をわずかも合わせることもなく、火宮と俺の間のドアが、静かに閉ざされた。
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