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第169話

っー! シーンとなったリビングに、俺の荒い吐息だけがこぼれる。 クラリと目眩を感じ、俺はふらふらとソファに座り込んだ。 「っ…」 どうしてこうなったんだろう。 そっと抱え上げた膝に両腕を回し、背中を丸めて顔を埋める。 胸が、苦しい。 膝を抱える腕に力を込めて、目をぎゅっと固く閉じた。 シーンとした静かな時間が流れる。 ふと、パタン、とドアの開く音がして、火宮が浴室から出て来たのが分かった。 「っ…」 ビクリ、と肩が震えてしまった。 だけどどうしても顔が上げられない。 そっと息を潜めたまま、後ろを通り過ぎる火宮の足音を聞く。 「………」 無言のまま寝室の方へ消えていく足音からは、火宮が何をどう思っているかは分からない。 ぎゅっと膝を抱えたまま、じーっとしていたら、再び火宮がリビングに出て来た気配がして、パサリと肩に毛布が掛かった。 え…? ピクンと指先が震えた。 けれども身体は動かさないままで。 寝てると思われてる? 呼吸が乱れないようにと気をつけながら、俺は静かに火宮の出方を窺った。 「………」 じっと見下ろされている気がする。 静かな息遣いだけが聞こえてくる。 っ…! そっと手が頭に伸びてきた気配がした。 え…? 触れる、と思った直前で、キュッと拳が握られた気配がして、そのままスッと火宮は踵を返して去っていってしまった。 「っ、ぁ…」 玄関の方でカチャンと火宮が出て行っただろう音が聞こえた。 仕事に向かったんだろう。 「ぅ、っ、ふ…」 ぎゅっと握り締めた毛布から、胸が苦しくなるほどの温かさを感じて、ツンと鼻の奥が痛んだ。 カタン…。 小さな物音が聞こえて、俺はリビングの入り口へ顔を向けた。 「失礼いたします。おはようござ…翼さん?」 やって来たのはブラックスーツに身を包んだ真鍋で。 リビングに1歩入ったところで、その表情が不審そうに歪んだ。 「どこか痛むのですか?」 「え…?」 ゆっくりと近づいてきた真鍋に言われて初めて、俺は自分が涙を流していることに気がついた。 「あ…」 ふらりと持ち上げた手が、頬を滑る水滴に触れた。 「あ、は。ごめんなさい…。何でもない…何でもないんです」 何だ、この涙は。 意味も理由も分からない。 「ですが…」 「本当に、何でも…」 あぁ、なんで止まらない。 後から後から溢れ出てくる涙が、ボロボロと頬を濡らす。 「うっ、ふっ…やだなぁ。もう本当」 何もかもが、急に嫌になる。 「翼さん…」 「っ、真鍋さん!」 「何でしょうか」 ごしっと涙を拭って、ジッと真鍋を見つめる。 「エレベーターを動かしてください」 「はい?」 「外に出たいんです」 「はぁっ。でしたらすぐにガードの手配を…」 浜崎がいないからね。 でも、今欲しいのはそれじゃない。 「護衛はいりません。護衛なしで出してください」 答えは多分、俺は知ってる。 知っているけど、敢えて願い出た。 「駄目です」 「やっぱり。でも俺…家出したいんです」 キュッと覚悟を決めて口に出したら、真鍋の顔がそれはそれは変なものを見るような表情になった。 「何をおっしゃっているのでしょうか」 「だから、家出をしたい、って…」 あぁその変な顔。 分かりますよ、俺だって。 何をトチ狂っているんだと思うだろう。 だけど。 「俺、本気です」 ふざけてるんでも、冗談でもないんだ。 真剣に真鍋を見つめたら、真鍋の顔が疲れたように小さく揺らいだ。 「はぁっ。またあなたは…」 何を言いだすんだって呆れられたって、今俺に出来そうなことが他に思いつかないんだ。 「駄目、ですか?」 上目使いに見上げてみても多分真鍋は揺らがない。 揺らがないだろうけど…。 「行く当てはおありなのですか?」 「え?」 あれ? 「何ですか?家出をなさるのでしょう?」 え?あれ? まさかこれ、許してくれる感じ? 駄目元で言ってみただけの俺は、あまりにあっさりした真鍋の反応に逆にこちらが呆けてしまった。 「何ですか?」 「っ…いえ」 よほど変な顔になっていたのだろう。 真鍋の顔が微かに笑ったような気がした。 「意外ですか?」 「あ、その、えっと…はい」 絶対に大反対の上、説教と説得に来ると思ったから。 「ふっ。頭ごなしに反対したところで、どうせあなたのことです。無理やりどうにかして、1人ででもこちらを飛び出されるおつもりでしょう?」 「う…」 それはまぁ。 この厳重なセキュリティをどうにかできるとは思えないけど、やろうとはするだろう。 「はぁっ。ですから、それならば初めから私の監視下で好きに行動させた方が面倒がありませんので」 あー、本当、何故か俺の性格をよく把握していらっしゃる。 「でもそれって、真鍋さん…」 ついて来るのか?俺の家出に? 「お供させていただきます」 「っ…それは火宮さんに…」 怒られるんじゃ…? 「そうですね。では考え直していただけますか」 「っ、いえ…」 「でしたら仕方がないでしょう。ではお支度が整い次第出かけましょうか」 あー?えーと? 真鍋が何を考えているのかいまいち掴めない。 だけどどうやら俺の希望はあっさり叶ったようで。 「分かりました。すぐに準備をしてきます」 真鍋の気が変わらないうちにと、パッと足をソファから下ろしたら、その動きにつられて毛布がバサリと落ちた。

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