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第172話
そうしてやって来た、2度目の七重組本家の屋敷。
あちらこちらから、七重が通りかかる度に、「お帰りなせぇ、オヤジ」やら、「お疲れ様です、オヤジ」の声がかかり、決まって隣を歩く俺に怪訝な目が向く。
それはすぐにハッとしたように見開かれ、大袈裟なほど頭を下げられるのだけども、それもまた居心地が悪いったらない。
「ん?どうかしたか?」
「いえ…」
相変わらず迷路かってほど入り組んでいて広い屋敷内を進みながら、俺はなるべく人目につかないようにとそっと身を縮めた。
だが、隣を歩くのがここの親分なのだから、目立たないというのは無理な話で。
「お疲れ様です、オヤジ。と、そちらは火宮会長の…」
「おぅ、中条。翼くんだ。暇な俺の話し相手になってくれるというので連れて来た」
「暇、ですか」
ジトーッと目を据わらせる中条の言いたいことはなんだかわかる気がするけど、俺は黙って頭を下げた。
「部屋にいるから、菓子でも用意して持って来い」
「分かりました」
七重の命令に、中条はあっさりと引き下がっていく。
「あ、そんなお気遣い…」
なく、という言葉は、中条にも七重にも届かなかった。
「翼くん、どうかしたかね?」
どうしたって…。
七重の部屋に通され、座卓を挟んで向かい合わせに座った俺の目の前には、どう見たって高級そうなプリンが…一体何個だ、これは。
「いえ…」
どうしてこう、ヤクザのトップの人っていうのは、金銭感覚と数量感覚がおかしいんだ。
「七重さんまで…」
無駄に大きなものや、無駄に多くのものを買いたがるのは火宮の専売特許かと思っていたけど。
「どうした?若いもんはこういう洒落たのがいいんだろう?ほれ、遠慮せずに好きなだけ食べたらいい」
「はぁ、ありがとうございます」
好きなだけって言ったって、いくらなんでも限度ってものがある。
ましてやプリンなんて、普通に考えて1人1個が当たり前じゃないのか。
「これも火宮さんなら…」
きっとごく当たり前の顔をして、何の疑問もなく受け入れるんだろう。
足りないより、余る方がいいに決まっている、とのたまう火宮の顔が浮かぶ気がする。
それが火宮や七重の常識で、当たり前の感覚で。
「っー、七重さん!」
「なんだね?どうした」
「っ、七重さんは…。七重さんにも、たくさんの護衛の方たちがついていますよね?」
さっき道で会ったときも、車に乗るときも。
降りた後も、玄関をくぐるまでも。
周りに七重を囲み、護るようについて歩いたブラックスーツの男たちの姿は見ている。
「あぁ。おるな」
「っ、彼らは…」
「ん?あやつらがどうかしたか?」
「っ!」
この人は、違うかもしれない?
ヒュッと息を飲んだ音が自分の耳に聞こえた。
「翼くん?」
「っ、彼らは、人、ですか?」
変な質問をしているのは分かっている。
だけどそう問わずにはいられない。
一瞬眉を顰めた七重だが、その口は迷わず答えを紡ぎ出した。
「人だな」
「っ!じゃぁ…七重さんは、護衛の人たちが、自分の身代わりに負傷したり、下手をしたら死んでしまうかもしれないことを、どう思いますか?」
あなたも、火宮さんと同じ答えを出しますか?
ドキン、ドキンと心臓がうるさく音を立てた。
ゆっくりと、七重の唇が動いて答えを紡ぎ出す。
「あやつらは、それが仕事だ」
っ…。
やっぱり。
あなたたちの感覚は。
「仕方のないことだと思っている」
冷酷に、あっさり言い切ってしまえる非情さ。
ジワリ、と黒い染みがまたも滲み出す。
「だから俺は、その傷や命の重さを背負う」
「え…?」
「仕方のないことだと割り切っている、その代わりに、俺は俺の責任と、そやつらの命の重みを、この両肩にしっかりと背負っとる」
っ…。
それが、この人の、覚悟。
ゾクッと震えた身体に、えもいわれぬ寒気と鳥肌が湧き立った。
「俺を生かすために失われる命があろうとも、俺はその犠牲の上に立ち、歩き続けなくてはならない。その犠牲を嘆いて、足を止めるわけにはいかない」
「っ…」
「俺を生かすために盾となり、犠牲となっていく人間を振り返ることを、俺はしてはいけない」
「っ、ふ…」
「たとえ俺の歩いた道の後ろに、累々たる死体が山をなしても。この手がどれだけの血を吸おうとも、どす黒く汚れようとも」
「っ、ふ…」
「俺はその1つ1つすべてをこの魂に刻み込み、その罪を背負ってなお、前へ進み続ける」
ツゥーッと目から伝った水の感触はなんだろう。
「行き着く先が地獄であるとは先刻承知。それでも俺は、貪欲に生き続ける。それが俺が選んだ、俺の生き方だから」
パタパタとテーブルに涙が散った。
なんて重い、七重の覚悟。
これが、人の上に立つということの重さ。
極道のトップであるということの責任。
「辛いと…思わないんですか?あなたは護衛は人だと言いました。自分のために失われていく人の命が、辛いとは…」
ズズッと鼻水を啜った鼻がツンと痛んだ。
「辛いと言ったら、やつらの命と覚悟に失礼だ」
「っ!」
それはやっぱり、辛くないわけじゃなくて…。
「その命と引き換えに生きる俺に、やつらを悼む資格はない」
「っ…」
「俺はどこまでも貪欲に意地汚く、最後まで生き抜いてくれようぞ」
っ、涙が、溢れて溢れて止まらない。
「あぁぁ…あぁぁぁっ!」
そうか。そうなんだ。
決して血を見ることに慣れたわけではなく。
血を流させたことの、失われた命の、その重みを知らないわけでもない。
むしろ…。
そうだ。
火宮の紡いだ言葉たちは。
「俺っ…俺は」
何で気づかなかった。
何で分からなかった。
火宮は、弱い。
弱くて弱くて、哀しく優しく強くなった。
それを知っていた俺なのに。
「翼くん?」
「俺っ、俺は…」
「翼くん」
スッと差し出されたハンカチは、後から後から溢れる涙にぐっしょりと濡れて、すぐに使い物にならなくなってしまった。
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