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第173話
「七重さん」
「なんだね?」
「七重さんっ…俺」
ぐしぐしと泣いていた涙を必死で拭い、俺は目の前の七重をジッと見つめた。
優しく目を細める七重の表情は柔らかく、俺は再びジワッと滲んできた涙を歯を食いしばって堪えた。
「俺っ、前に、覚悟があるって…。火宮さんの全部が愛おしいって、愛してるって言ったくせに…」
「あぁ」
「俺はっ…火宮さんの過去を、責めるようなことを言った。火宮さんを責めるような言葉を吐いたっ…」
ポロ、と、やっぱり流れてしまった涙が、ポタリとテーブルに弾けた。
「そうか」
「っ、んっ…。火宮さんは血を見ることに慣れたわけじゃない。血を見て平気でいられるわけじゃなくてっ、むしろ、むしろその逆で…。流した血の重みを誰よりも知っているから、誰よりも重く背負っているから、だから…」
「翼くん…」
「あの日から…その手を汚したその日から…。あなたの手を取り、この世界で生きると選んだそのときから…」
全てをその身に背負い込む覚悟で。
「だからあの冷たい言葉は…あんな風に非情な顔をしてみせたのは…」
どれだけ深い赤を背負っても、決して揺らがぬ自分であると思い知らせるため。
血濡れの手を握り締めて、他者の流した血を踏みつけてその上に立つことを選んだ、哀しく優しく強い人。
その、生き様を。
俺だけは否定しちゃいけなかった。
誰より俺が、責めてはいけなかった。
「だってあれは全部、俺のために…」
火宮が口に乗せた言葉たちは全て。
「情けない…。俺…」
「翼くん」
「何が全てを引っくるめて火宮さんを愛しているだ…」
情けなさ過ぎて笑えてくる。
「翼くん…」
「全部分かってたつもりだったのに。あの人の、弱さを、強さを、何よりも優しさを。なのに俺は、あの人にあんな顔をさせて、あんなことを言わせて、しかも家出してきた」
ははっ。なんかもう、笑っちゃうしかない。
「家出だったのか」
「そうなんです。もう帰れません。情けなさ過ぎて、火宮さんに合わせる顔がない」
「翼くん…」
「七重さん、あなたにも。前に堂々と宣言しておいて…。火宮さんへの想いを自信たっぷりに語っておいて…俺は」
床につくほど頭を下げてもまだ足りない。
「ははっ、お灸を据えられなければならないのは、俺の方です」
怒って下さい。
俺はあなたに託された火宮さんを、酷く、酷く傷つけた。
「翼くん」
「っ、はい」
「いいんじゃないかね」
「え…?」
さらりと言われた言葉は、一瞬聞き間違いかと思った。
ヤクザの親分らしくなく、ふわりと柔らかく笑っているこの人は一体。
「間違えたのなら、ごめんと一言謝ればいい」
え…。
それで済ます?
あっけらかんと言っている七重が、さっぱり理解できなかった。
「俺、火宮さんに本当に酷いことを言ったんですよ?納得できなくて、反抗して、カッとなって…」
「だから、いいんじゃないかね」
「っな…」
一体何が。どこがいいのだ。
「きみは火宮か?」
「え?いいえ」
「では大人か?ヤクザか?組の長か?」
「いいえ」
「逆に火宮はこどもじゃない。カタギじゃない。伏野翼くん、きみじゃない」
「っ!」
あぁ、分かった。
七重が何を言いたいのかが。
「それぞれ個別の人間だ。分からないことも、理解できないことも、考えが違うことも当たり前ではないのか」
「っ…それは」
「だから惹かれ合い、ときには反発し合う。ぶつかり合うこともあるし、寄り添い赦し合うこともある」
あぁ、あぁそうか。
「それでも共にいたいと願う想いが強いとき、人は人と寄り添い歩む道を選ぶ」
「んっ…」
「けれどもそうではなく、自分の意志や考え方が大きくそれを凌駕したとき、人は人と道を違えることを選ぶ。別れを選ぶ。どんなに愛しく大切な相手でも、譲れない一線が出てきたときに、人は人の手を離さなければいけなくなる」
互いのために。
そう微笑む七重の顔が切なくて優しくて、スゥッと静かに涙が溢れた。
「あぁぁぁ…」
知ってる。
俺はそうして、大切な友人を手放した。
知ってる。
火宮は俺に、慣れろと言った。
側にいたければ、慣れろと。
火宮は火宮の生き方を譲れない。
「っ、俺は…」
「あぁ。翼くんは、どうしたい?」
「っ、それは…」
俺が歩み寄れなければ、俺たちは終わり、だ。
「っ…俺は」
「翼くんは、どうしたいんだ?」
なるほど、この人はやはり手厳しい。
「俺は、火宮さんが好き。俺はやっぱり護衛の人に、心を揺らさないことはできないけれど、それが出来る火宮さんを、嫌いにはならない。それを否定は、もうしない」
「そうか」
「俺はやっぱり、どんな火宮さんを知っても、見ても、どうしても好きですっ。一緒にいたい。その手を放すなんて考えられない」
「では答えは出ておるな」
ふっ、と笑った七重の顔に、俺はぎこちない泣き笑いを向けた。
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