173 / 719

第173話

「七重さん」 「なんだね?」 「七重さんっ…俺」 ぐしぐしと泣いていた涙を必死で拭い、俺は目の前の七重をジッと見つめた。 優しく目を細める七重の表情は柔らかく、俺は再びジワッと滲んできた涙を歯を食いしばって堪えた。 「俺っ、前に、覚悟があるって…。火宮さんの全部が愛おしいって、愛してるって言ったくせに…」 「あぁ」 「俺はっ…火宮さんの過去を、責めるようなことを言った。火宮さんを責めるような言葉を吐いたっ…」 ポロ、と、やっぱり流れてしまった涙が、ポタリとテーブルに弾けた。 「そうか」 「っ、んっ…。火宮さんは血を見ることに慣れたわけじゃない。血を見て平気でいられるわけじゃなくてっ、むしろ、むしろその逆で…。流した血の重みを誰よりも知っているから、誰よりも重く背負っているから、だから…」 「翼くん…」 「あの日から…その手を汚したその日から…。あなたの手を取り、この世界で生きると選んだそのときから…」 全てをその身に背負い込む覚悟で。 「だからあの冷たい言葉は…あんな風に非情な顔をしてみせたのは…」 どれだけ深い赤を背負っても、決して揺らがぬ自分であると思い知らせるため。 血濡れの手を握り締めて、他者の流した血を踏みつけてその上に立つことを選んだ、哀しく優しく強い人。 その、生き様を。 俺だけは否定しちゃいけなかった。 誰より俺が、責めてはいけなかった。 「だってあれは全部、俺のために…」 火宮が口に乗せた言葉たちは全て。 「情けない…。俺…」 「翼くん」 「何が全てを引っくるめて火宮さんを愛しているだ…」 情けなさ過ぎて笑えてくる。 「翼くん…」 「全部分かってたつもりだったのに。あの人の、弱さを、強さを、何よりも優しさを。なのに俺は、あの人にあんな顔をさせて、あんなことを言わせて、しかも家出してきた」 ははっ。なんかもう、笑っちゃうしかない。 「家出だったのか」 「そうなんです。もう帰れません。情けなさ過ぎて、火宮さんに合わせる顔がない」 「翼くん…」 「七重さん、あなたにも。前に堂々と宣言しておいて…。火宮さんへの想いを自信たっぷりに語っておいて…俺は」 床につくほど頭を下げてもまだ足りない。 「ははっ、お灸を据えられなければならないのは、俺の方です」 怒って下さい。 俺はあなたに託された火宮さんを、酷く、酷く傷つけた。 「翼くん」 「っ、はい」 「いいんじゃないかね」 「え…?」 さらりと言われた言葉は、一瞬聞き間違いかと思った。 ヤクザの親分らしくなく、ふわりと柔らかく笑っているこの人は一体。 「間違えたのなら、ごめんと一言謝ればいい」 え…。 それで済ます? あっけらかんと言っている七重が、さっぱり理解できなかった。 「俺、火宮さんに本当に酷いことを言ったんですよ?納得できなくて、反抗して、カッとなって…」 「だから、いいんじゃないかね」 「っな…」 一体何が。どこがいいのだ。 「きみは火宮か?」 「え?いいえ」 「では大人か?ヤクザか?組の長か?」 「いいえ」 「逆に火宮はこどもじゃない。カタギじゃない。伏野翼くん、きみじゃない」 「っ!」 あぁ、分かった。 七重が何を言いたいのかが。 「それぞれ個別の人間だ。分からないことも、理解できないことも、考えが違うことも当たり前ではないのか」 「っ…それは」 「だから惹かれ合い、ときには反発し合う。ぶつかり合うこともあるし、寄り添い赦し合うこともある」 あぁ、あぁそうか。 「それでも共にいたいと願う想いが強いとき、人は人と寄り添い歩む道を選ぶ」 「んっ…」 「けれどもそうではなく、自分の意志や考え方が大きくそれを凌駕したとき、人は人と道を違えることを選ぶ。別れを選ぶ。どんなに愛しく大切な相手でも、譲れない一線が出てきたときに、人は人の手を離さなければいけなくなる」 互いのために。 そう微笑む七重の顔が切なくて優しくて、スゥッと静かに涙が溢れた。 「あぁぁぁ…」 知ってる。 俺はそうして、大切な友人を手放した。 知ってる。 火宮は俺に、慣れろと言った。 側にいたければ、慣れろと。 火宮は火宮の生き方を譲れない。 「っ、俺は…」 「あぁ。翼くんは、どうしたい?」 「っ、それは…」 俺が歩み寄れなければ、俺たちは終わり、だ。 「っ…俺は」 「翼くんは、どうしたいんだ?」 なるほど、この人はやはり手厳しい。 「俺は、火宮さんが好き。俺はやっぱり護衛の人に、心を揺らさないことはできないけれど、それが出来る火宮さんを、嫌いにはならない。それを否定は、もうしない」 「そうか」 「俺はやっぱり、どんな火宮さんを知っても、見ても、どうしても好きですっ。一緒にいたい。その手を放すなんて考えられない」 「では答えは出ておるな」 ふっ、と笑った七重の顔に、俺はぎこちない泣き笑いを向けた。

ともだちにシェアしよう!