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第183話
「ところで翼、今日は出かけて来たのか?」
スーツを脱いできた火宮が、キッチンでお酒を作りながら聞いてきた。
「え?いえ今日はずっと家にいました」
「そうか。真鍋が寄越したやつが来ただろう?」
「えーと、手島さん?」
確かに神谷が紹介だけしに来たけど。
「あぁ。何も言ってなかったか?」
「何も?特には…」
ふぅん、と呟きながら、グラスを持ってリビングに出てくる。
「ほら」
「え?」
真っ赤な液体が入ったグラスを差し出された。
「付き合え」
自分はウイスキーらしきお酒のグラスを持っている。
「これは?まさかトマト…」
「クッ、バージンブリーズ」
「バージン?」
何だって?
「ククッ、そこで区切るか」
「っ…」
「おまえはとっくに…」
「わーあーっ!」
何だってすぐそうやって下ネタに走るんだ。
まぁ分かる俺も俺だけど。
「ふっ、クランベリーとグレープフルーツ。好きだろう?」
「へ?え、あ、これ?」
意地悪が続くと思った火宮の切り替えの早さに、うっかりキョトンとなってしまった。
「ウォッカを入れれば、シーブリーズというカクテルになるがな。おまえはノンアルコールだ」
ガキ、と笑う火宮の手から、バージンブリーズとやらのグラスを受け取る。
「んっ…爽やか」
「美味いか?」
「はい!」
ふわりと広がる程よい酸味が心地いい。
隣に座った火宮は、格好良くグラスを傾けている。
「火宮さんのはウイスキー?」
「今日はブランデー」
何が違うんだろう…。
「ククッ、同じじゃないか、って顔をしている」
「っ!何で分かっ…」
「おまえは目が語る」
クックッと可笑しそうに喉を鳴らしながら、ゴクンとブランデーを飲んでいる火宮は、ほんとうに様になる。
つられて上下する喉仏が、男らしくて格好いい。
「大人ー」
「ククッ、ガキ。まぁどちらも蒸留酒には違いないがな」
「ふぇ」
「ウイスキーは穀類を発酵蒸留したもの、ブランデーは果実がもとだ」
クッ、と笑って、またグラスを傾ける。
「原料の違い?」
「あぁ。ビールとワインの違いは分かるだろう?」
「はい」
さすがにそれくらいは。
「なら簡単だ。ビールを蒸留したらウイスキー、ワインを蒸留すればブランデー」
「あぁっ、なるほどー」
穀類と果実!
わかりやす。
「ふっ、おまえも成人したら、飲み比べてみるといい」
「はいっ」
「まぁだが、酒なんてのは、好みのものを楽しく飲めればそれでいいのさ」
うんちくよりな、と笑う火宮がグラスを手の中でもてあそぶ。
「楽しみにしておきます」
「あぁ。期待しておけ」
「はい」
んーっ、でもこのバージンブリーズっての、本当美味しい。
ゴクゴクと飲み進めてしまいながら、隣の火宮に顔を向けた。
「ねぇ火宮さん」
「なんだ」
「そういえば真鍋さん、明々後日は家庭教師来ますかねー?」
俺のせいで謹慎中だけど。
「どうだかな。やっぱり真鍋がいないと相当仕事が溜まる。復帰してすぐは、溜まった仕事の処理に追われるんじゃないか」
「ほっぇ…」
「何だ、真鍋に会いたいのか」
スゥッと目を細める意地悪な顔が怖いって!
「そうじゃなくて。暇だから…。それに俺も、分かんないところが溜まっちゃうし」
「ククッ、おまえもか。何なら真鍋がいない間、俺が教えてやる、と言いたいところだが」
「えっ?」
どう見ても教師には1番向かなそうな火宮だけど。
「残念ながら、真鍋の抜けた穴が大きすぎて、俺も当分残業三昧の予定だ」
「あははー。そっか。真鍋さんって、本当、必要な人なんですね」
火宮の片腕で、なくてはならない存在みたいなのが羨ましい。
「まぁな。まぁ、仕事はできるな」
「仕事『は』!」
「ふっ、第1側近としてもいなくてはならないが…小舅だぞ、あれは」
いちいち煩い、と笑う火宮は、けれども信頼ゆえにその悪口が言えているような気がした。
「お2人の絆は、何だか妬けちゃいます」
「ククッ、まぁ長いからな」
昔を懐かしむような火宮の遠い目が、ゆるりと穏やかに細められる。
「そっか」
「第1印象は、お互いものすごく悪かったはずなんだがな」
「へぇぇ」
それが今じゃ、なくてはならない存在って。
「ククッ、知りたければ真鍋にでも聞け。機会があれば馴れ初めくらいは俺も話してやる」
「あー、聞きたいです、ぜひ」
「あぁ。だが今夜はもう遅い。またいずれな」
遅いって言っても、もうすぐ日付けが変わるかってくらいだけど。
「俺はどうせ明日も暇なのにー」
「俺が朝早い。それにおまえ、暇って、だから手島に言ったはずなんだが」
「え?」
何を。
俺は何も聞いていない。
「浜崎の見舞い、行ってもいいと」
「え!」
それって…。
「俺の考えは変わらない。だがその上で、できる限りのお前の意志は尊重する」
「っ…火宮さぁん」
本当、この人は。
「俺もつくづくおまえには甘い。だが、もう病院は移ったし、退院もすぐだ。だから1度だけだぞ」
「え?転院したんですか?」
「あぁ。うちの息が掛かったところへな。色々と融通が利く上に、人の出入りを制限できる」
「人」と言いながら、それは警察だということは容易に想像がついた。
「そうですか。でもすぐ退院って…」
「まぁ護衛につけるくらいだ。それなりに反射神経はいい。重篤な内臓損傷も動脈損傷もなかったとさ。お陰で順調に回復中らしいぞ」
「そうなんだ…」
あんなに咄嗟の出来事にも、俺を守りつつ自分も最大限に守れるのか。
「見直したような顔をしているな」
「っ!それは…」
違わないけど…。
スゥッと細められた火宮の目がやばい。
「クッ、そういえば、俺はおまえの我儘に譲歩してやるんだよな?」
「っ…」
出た。
さすがは暴れるサークルさんな言い掛かり。
「なら、見舞いを許可してやる礼をもらってもいいよな?」
「う…」
そもそも駄目だというのも火宮の都合なら、許可っていうのも火宮の勝手な言い分なのに。
なんてのは、この俺様何様火宮様には通用しないのももう分かってる。
「ち、ちなみにお礼って?」
「分かっているだろう?」
「あー、明日の朝ごはんは火宮さんの好物づくし!とか?」
えへ、と媚びるように小首を傾げてみたけど。
「起きなくていい」
「っ…」
「いや、起きられるわけがない、と言おうか?」
スゥッと流し見てくるその目がやばかった。
これはもう、どSスイッチオン状態で。
「っー!昨日もあんなにしたのに!」
連日とか身体が保たないって。
「ククッ、若いくせに何をいう」
「そっちはおじっ…や、なんでもないです」
危ない。
うっかり、「おじさんのくせに絶倫」とか言いかけた。
思い止まった俺、えらい!学習してる。
なのに火宮の目はとっても愉しそうに揺れていて、その手がスイッと俺の顔に伸びてきた。
「ん?何を言おうとした?」
「んぐ。ったい!痛い、痛い、ギブギブ!」
ムニッと頬っぺたを片手で掴まれたと思ったら、そのまま握力に任せてギューッと力を込められた。
右頰と左頬が口の内側でくっつくかと思うほど寄せられて、あまりの痛みに涙が出た。
「ひひやはんっ…ったひはらぁ」
「ククッ、不細工なツラだ」
「ははひれー」
お願い、離して。
「ふっ、その目はなかなか…」
「ふはぁっ…んもぅ、痛いっ!」
ニヤリとゆがんだ火宮の唇が見えた瞬間、パッと離れた手にホッとする。
「可哀想に。赤くなって」
自分でしておきながら、ナデナデと同情気味に頬を撫でてくるその神経がさすがだ。
「もうやだ。今日は絶対しないー。するもんかー」
ツンとそっぽを向いて、少しの駄々くらい許されるよね?
「翼」
ふん。困ればいい。
「翼」
そんな風に低く色気を含めた声で呼ばれたって、今日は絆されないんだからね。
「翼、今日は正気のおまえを抱きたい」
「っ…」
ずるい。
そんな風に愛おしそうに囁かれたって…。
「翼、優しくする」
「っーー!」
やばい。
尾骶骨直撃の甘い声っていうのはこれだ。
好きな人にそんなに大事そうに囁かれたら、どんな意地だって一瞬で剥がれて当たり前で。
「っ、火宮さん…」
うっとりと、逸らしていた目を火宮に戻した俺は。
「クックックッ、今夜は朝まで寝かさない」
「っーー?!」
ニヤリと意地悪く弧を描いた口元と、キラリとサディスティックな光を宿した目を見つけた。
「え、演技っ?!」
考えてみればこの火宮が、いくら俺にでも下手に出たり、媚びたりしてくるわけがないのだ。
「ククッ、愛している」
そっと耳に唇を寄せられ、レロッと耳穴を舐められながら甘い甘い言葉が囁かれた。
もうどこまでが計算で、何が本音か分からない。
「本当、ずるい」
もう嘘でも演技でも構わない。
それでも全部全部嬉しくて、ゾクゾクしちゃった身体と心は誤魔化しようがなくて。
「本当に本当に優しくして下さい」
コトンとグラスをテーブルに置いて、空いた両手を火宮の身体に回す。
「ねっ?」
ぎゅっと抱きついて、触れるだけの軽いキス。
言葉に代えたオーケーの証し。
「ククッ、どこで覚えた」
ペロッと目元の涙を舌で掬った火宮の顔が、それはそれは綺麗に綻んで。
「っ、ぁ…」
気づいたときにはヒョイとお姫様抱っこされていて、ズンズンと歩いていった火宮と共に、寝室のドアをくぐっていた。
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