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第186話

「どうぞ、そちらにお掛け下さい」 応接セットのようなテーブルと椅子を勧められ、俺は大人しくそこに腰を下ろした。 「緊張なさっていますか?」 えぇそりゃもう。 カチンコチンの俺に気づいているのか、朝倉が空気を解すように微笑んだ。 「では先にこちらの者を紹介いたしましょうか」 「あ…」 こっちに移動してきたとき、朝倉の後ろにさっと立った男の人には気づいていた。 「まだまだ見習いで修業中の新人デザイナーですが、廣瀬柚(ひろせ ゆず)といいます」 「はぁ、どうも」 「勉強の為にと僕のアシスタントについてもらっています。多分、僕よりは伏野様に歳が近いですし、伏野様のご希望を引き出す助けになればと思います」 ペコリと頭を下げた廣瀬という人は、目がくりっと大きく、やけに中性的な可愛らしい人だと思った。 まぁ俺も人のことを言えないくらいには、「可愛い」とか「翼ちゃん」とか散々言われてきたくちではあるけれど。 「さて。ではまず、そうですね…。伏野様は普段、どのようなファッションを好まれますか?」 「ファッションですか…」 「本日のお洋服はご自分でコーディネートを?」 言われて見下ろした今日の格好は、火宮が買ってくれた中から適当に選んだものだった。 「えーと、全部買って来てもらってて…」 そういえば火宮と暮らすようになってから1度も、自分で服飾の類は買ったことがないことに気がついた。 「組み合わせだけご自身ですね。ではお好きなお色は」 「色かぁ…黒、かな…」 パッと浮かんだのが何故か火宮の姿で。 そして思わず出ていたのが、多分元々はそこまで好きなわけではなかったはずのその色だったことに驚いた。 「あ、いや、そのっ、み、緑とか青とかももちろん…」 って、何をワタワタと焦って言い訳じみたことを言っているんだ、俺。 「無彩色か、暖色系よりは寒色なのですね。ちなみにお誕生日は?」 「6月です」 「なるほど。デザインにこだわりとかはありますか」 「うーん…」 「シンプルな方がいいとか、凹凸が多いものや、つや消し、光沢など…」 「うーん…」 そう言われても、どうにも上手くイメージがわかない。 「分かりました。何点か実際のリングをお持ちいたしますね」 「あ…すみません」 「いえ、実際にどんなものが自分の好みなのか、見た方がわかりやすいですよ。では少し外しますが、廣瀬くん、それまでお相手をよろしく」 「はい、朝倉さん」 真鍋に負けず劣らずの優雅なお辞儀を残して、朝倉が店頭のリングを取りに行く。 残った廣瀬が、「失礼します」と会釈をしながら、俺の斜め前、テーブルの真横辺りの床に膝をついた。 「え…」 「何かお飲み物はいかがですか」 スッと差し出されたのはドリンクのメニュー表だ。 「え、あ…」 「こちらからお選び下さい」 「あ、と、じゃぁ、お、オレンジジュース」 『ふっ、ガキが…』 「え?」 「かしこまりました」 え? なんか一瞬、ものすごい敵意と、憎々しげな呟きを感じた気がしたけど。 スッと床から立ち上がって、そっと近づいてきたスタッフに注文を伝えている姿は、何の違和感もなく、ごく普通だ。 「すぐにお持ちしますので。少しお待ち下さい」 「え、あ、はい。ありがとうございます」 ペコンと下げた頭を上げて、チラリと廣瀬に目を向けたら、何故かジッと俺を見ている視線とぶつかった。 「え?あの、俺に何か…」 知り合い…ではないはずだ。 「あの…」 「ふっ、並みだろ…?」 「え?」 ポツリと呟かれた廣瀬の言葉の意味がよくわからなかった。 「どうやって火宮会長に取り入った」 「え…」 火宮『会長』? 唖然と口を開けてしまった俺に、廣瀬は先ほどまでとは打って変わった、嘲笑とも取れる笑みを浮かべた。 「あんたをここに連れてきた男だよ。蒼羽会の火宮会長だろ?」 「っ!」 この人は、火宮の本職を知っている…。 本能的に、敵かと身構えた俺を嘲笑うかのように、廣瀬は小馬鹿にしたような醜い笑みを浮かべた。 「裏社会をちょっとでも知っていれば、あの人の名前を知らない者はいない」 「え。裏社会ってそれ…」 「ふっ、さしあたってあんたは今の情人の1人か」 「え、あの…」 「火宮会長が男もいけるだなんて初耳だけど、俺には嬉しい誤算だな」 ふふ、と笑う廣瀬の顔は、男の俺から見ても可愛らしくて、小悪魔的な魅力があった。 「どうやらあんたには、服を全部買ってやるとか、こうしてフルオーダーで指輪を作るとか、随分な入れ込みようみたいだけど」 「それはだって…」 恋人、だから? 「ふっ、それがいつまでももつとは思うなよ?」 「え?」 「だってあの火宮会長だぞ。それこそ女なんて選り取り見取りだし、ほっといたってお近づきになりたい人間がわんさか寄ってくる」 確かにモテるけど。 「あれだけの容姿、あれだけのステイタス。ヤクザだということを差し引いても、有り余る魅力を持ついい男。1度でいいから抱かれたい。あわよくば付き合いたい。誰もがそう思う」 「っ…」 「今はきっと、あんたの何かが気に入って側に置いてるんだろうけど、そんなのいずれ飽きる。それに男のあんたでいいんだったら、俺だって。むしろ俺の方が可愛いし、アッチのテクだって絶対に俺の方が上だ」 「っ…」 チラリと赤い舌を覗かせる廣瀬は、確かに不思議な色気がある。けれどこんなところでそんな張り合いをされても、俺はどうしたらいいものか。 「なぁ、俺を火宮会長に紹介してよ。どうせあんたはマグロだろ?1度でいい。1度俺の身体を味わったら、きっと火宮会長だって、俺を…」 「マグ…っ、味わうって…」 それは自分で火宮の浮気を斡旋しろという話か? 頭の中がぐるぐると混乱してくる。 「あんただって本当は分かってるんだろ?火宮会長は、蒼羽会のトップ。そうしていずれは、上の七重組でも要職に必ずつくだろう人だ」 「そ…」 そうなんだ? 俺はヤクザな火宮の詳しいことは、何にも知らない。 「そんな男には、姐っていう組を纏めて引っ張っていく存在が必ず必要になるし、上には絶対に勧められる。周りから舐められないためにも、姐さんになる人を娶るのは当たり前だ」 「っ…」 「だからあんたがこうやってちやほやされるのも、調子に乗ってられるのも今のうちだけ。だからその遊んでいられる今のうちに、俺もついでにつまみ食いしてもらいたいわけ」 「なっ…」 何を言っているんだろう、この人は。 「あんたも俺も、火宮会長が正式に妻を娶るまでの手慰み。だけど俺は絶対に愛人の座についてやる。あんたがどういうつもりでいるかは知らないけど、まぁ火宮会長ほどの人なら、愛人なんて何人も囲えるだろうし、あんたも上手くすれば囲ってもらえるだろうから、別に俺を紹介するくらいいいだろ?」 ぐるぐる、ぐるぐると廣瀬の言葉が頭を回り、俺の思考回路はショート寸前だった。 「なぁ、伏野サンだっけ?これ、俺の連絡先。あんたのも教えてくんない?」 スッ、とあまりに自然に差し出されたのは、1枚の名刺。 「ボーイズバー?」 「副業…の深夜バイト」 「………」 だから火宮のヤクザな顔を知っていたのか。 「なぁあんたの……隠せっ」 ぐいっ、と手ごとポケットに押し込まれてしまった手の中で、クシャリと紙がまるまる感触がした。 「お待たせいたしました、オレンジジュースです」 どうぞ、と、コースターとオレンジ色をした液体が入ったグラスが置かれていく。 「あ、どうも…」 にこりと微笑んだスタッフさんは、すぐにその場を去っていく。 「チッ。とりあえず、必ず連絡して来いよ」 「あの…」 「お待たせいたしました」 スッと素早く離れてしまった廣瀬を見上げた瞬間、いくつかの高そうな指輪を乗せたトレイを持った朝倉が戻ってきた。 「伏野様?」 「あ、はい…」 「どうかなさいましたか?」 「え?いえ…」 丁寧にテーブルの上にトレイを置いた朝倉が、向かいの椅子に座る。 「そうですか?では、こちら、いくつかタイプの違ったリングをピックアップして持って参りましたが、どうですかね」 「はい…」 「パッとイメージに合うようなものがなければ、また別のものを選んで参りますので、遠慮なく申し付けてください」 「はい…」 「どうぞ、お手に取って眺めていただいても構いませんよ」 ふわりと優しく微笑まれても、今の俺は廣瀬に言われた言葉が気になって、とても指輪の好みを探るどころではない。 マグロ…。 姐さん…って、極妻ってやつか。 確かに男の俺じゃ、火宮のお嫁さんには絶対になれないけれど…。 「こちらは、一見シンプルですが軽くツイストしていて…」 「はぁ」 愛人…。今だけの手慰み…。 ううん。火宮さんは、俺のことを一生愛し抜くって…。 何度も囁かれた「愛している」の声が蘇る。 「これはジュエリーをふんだんにあしらった…」 信じなきゃ。 火宮の言葉だけが絶対だ。 揺れるな、俺。 ぐっと腹に力を入れて、キッと視線を持ち上げる。 「っ!」 朝倉が親身になって説明している、その後ろ。 真剣な朝倉の顔のその向こうに。 っ…。揺らぐな、俺…。 自信たっぷりに俺を見つめ、にぃっ、と勝ち誇った笑みを浮かべている廣瀬の顔が見えて、ドクンッと鼓動が大きく跳ねた。 火宮の言葉だけを、信じ、なきゃ…。 そう自分に言い聞かせていること自体が、すでに廣瀬の言葉に揺れているんだってことに、このとき俺は気づいていなかった。

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