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第187話

それから俺は、朝倉に一体どんな返事をしていたのか。 完全に上の空で、全く記憶になかった。 「それではまた、ラフデザイン画ができましたらご連絡いたします」 「あぁ。分かった。翼?行くぞ」 あれ。いつの間に火宮さんと合流したんだっけ。 「翼?」 「あ、はい。よろしくお願いします」 「おまえ…どうかしたか?」 「え?いえ…」 「そうか。緊張し過ぎて疲れたか?」 ククッと笑う火宮の手が、そっと肩を抱いてくれて安心する。 けれどもその瞬間。 っ…。 ゾッとするような敵意に満ちた視線を感じ、思わず火宮にしがみついた。 「翼?」 「あ、ごめんなさい…」 「ククッ、何を可愛いことをしてくれる」 パッと離れようとした俺を、逆にギュッとますます近くに抱き寄せて、火宮が満足げに喉を鳴らす。 チラリと視線を流した周囲には、丁寧に頭を下げて俺たちを見送るオーナーさんと朝倉、同じく廣瀬がいるだけだ。 廣瀬さん…。 平然と、何事もなかったかのように頭を下げている廣瀬だけれど、その目がこっそりと、俺と、そして隣の火宮の一挙一動を見ている。 「火宮さん」 「ん?どうした」 「いえ。早く行きましょう」 クイッと火宮の服を引いた俺は、足早に足を進める。 「ククッ、おまえはいつまで経っても高級店が苦手なんだな」 いい加減に慣れろ、と笑っている火宮に、俺は曖昧な笑みを返して店を出た。 「会長、次はどちらへ」 店を一歩出た瞬間、影のように近づいてきた真鍋に促され、俺は今、火宮と並んで黒塗り高級車の後部座席に収まっていた。 助手席に座った真鍋の、目から上だけがバックミラーに見える。 「そうだな、昼飯だ。翼」 「はい?」 「何が食べたい?」 え。いきなり振られても。 「何でもいいぞ」 「え…じゃぁ、ラーメン…」 あぁ俺、何を試すようなことを言ってるんだろう。 「真鍋」 「はい。では、そうですね…中華街はいかがですか」 「あぁ」 「え?」 え。ちょっと待って。 ラーメンが採用ってのも驚きなんだけど、さらになんかとんでもない単語が聞こえてきたような気がするのは気のせいか。 「どうした?」 いやいやいや、どうしたって。 ラーメン1杯で、一体どこまで行く気か。 「あの、ラーメンっていうのは…」 「ん?」 「俺がいうのは、普通のラーメン屋さんのラーメンですよ?大衆的な…むしろチェーン店とかで全然」 「真鍋?」 「そうですね、それは少々…警護上の都合などを考えますと…」 うーん、と脳内データベースを探っているらしい真鍋の表情は難しく、やっぱり無理だよな、なんて納得する。 そもそも火宮にラーメンとか。 想像しようとしてみたけど、まず想像がつかない。 「翼さん、味のご指定はありますか?」 「え?」 「翼は醤油だろう」 「え…」 思わず隣の火宮を見てしまう。 「ククッ、家にインスタント麺が買ってあった。醤油味だったろう?」 「あ、はい…」 見たんだ。 確かに昼間、たまに無性に食べたくなって、インスタントラーメンを1人で作って食べているし、ストックしてあるのは全部醤油味に違いないけど。 そんな細かいところも見て、ちゃんと好みを覚えてくれてる…? 「ふっ、どうした?」 「火宮さん、俺…」 「ん?」 やっぱりこの人は、真剣に真っ直ぐ俺を想ってくれてる…と、思う。 だけど同時に、それは今だけのこと。 いつか火宮に結婚相手が現れるまでのうたかたの関係だ、と囁く声もする。 「っ…俺」 「なんだ」 「いえ、その、俺、やっぱり、ラーメンじゃなくていいです。あの、火宮さんの食べたいものは?」 やっぱり駄目だ。 火宮に似合わないラーメンなんかを提案して、警備の都合を無理させるような我儘を言って、今の関係にひびを入れたくない。 「俺の?」 「はい」 だってきっと、今はちゃんと、ちゃんと俺は想われている。 だからいつか、いつかきっと、火宮と並び立つ女の人が現れて、俺は身を引かなくちゃならない日が来るんだとしても。 せめてそれまでは。少なくとも今は、俺が恋人で、その関係は出来るだけ長く、長く続いて欲しい。 「ラーメン」 「は?」 だからそれは俺が言ったもので…。 「なんだ」 「だって、火宮さんの食べたいものを聞いているのに」 「だからラーメンだ」 「それは俺の…」 何、この人。喧嘩売ってるの? 「ククッ、なんだその不満な顔は」 「だって…」 「ふっ、翼が食べたいものが俺の食べたいものだ」 「は、ぁっ?」 「何か問題が?」 ちょっ…。サラッと何言ってくれてんの…。 「真鍋」 「はい。少々走りますが、一軒ほど思い当たります」 「分かった。高級店じゃないだろうな?」 「はい。ごく一般的な大衆ラーメン店かと」 「いいだろう」 淡々と交わされる会話で、なんだか行き先がサクッと決定しているみたいだけど…。 「ん?」 「っ、火宮さん…」 「ククッ、楽しみだな」 ポン、なんて頭を撫でて、そんなに優しく瞳を和ませられたら。 「火宮さんっ…」 もうどうして。どうしてこの人は。 「好きです。好き…」 思わず隣の火宮に伸び上がって、ぎゅう、とその首に腕を回す。 「ククッ、どうした。人目がある前で珍しい」 だって、だってさ。 「っ、ごめんなさい」 大好きなんです。 俺は本当に欲張りで。 ずっとずっとこうしていたい。 火宮に想われ、想っていたい。 「火宮さんっ…」 こんなに真っ直ぐ愛されてる。 だけどそれを信じ切らない自分がいる。 「どうした、翼」 「っ…」 自ら口付けにいった俺の唇を、火宮が厭わず受け入れてくれた。 「ククッ、翼」 「んっ…あ、ぁ…」 クチュ、チュッ、と、吸われた舌が水音を立てて、力が抜けていく身体がシートに沈む。 「………」 ガツッ…。 びっくりした。 いきなり助手席のシートを蹴りつけるとか、何してるの。 「見るな、減る」 「はぁっ…」 あ。 真鍋がものすっごく呆れてる。 「運転」 「すっ、すみませんっ…」 ふら、ふら、と蛇行した車に、俺は今更恥ずかしくなってきて、カァッと頬が熱くなった。 「あの、俺っ…」 「ククッ、おまえはただ俺に寄りかかっていればいい」 「っ、火宮さん…」 「おまえは俺に、ただ甘えてろ」 そっと抱き寄せられた身体がトンッ、と火宮の身体に触れて、そこから全身に広がった甘い甘い痺れが、きゅぅ、と切なく胸を締め付けた。

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