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第192話
「っ!」
不意に意識が覚醒して、ガバッと身体を起こしたら、カーテンの隙間から差し込む光が目に入った。
「っ、久々にやった…大寝坊」
チラリと目を向けた隣には、火宮の姿はもうない。
ばさりと捲った布団の下からは、パジャマを着た身体が現れる。
ベトつく不快感もないことから、事後の身体を拭いてくれただろうことが分かった。
「っーー!俺…」
ヤるだけやって、事後処理させて、朝も爆睡していて見送りもしないなんて、何をやってるんだろう。
ぎゅう、と抱えた頭を、立てた膝にガンガンぶつける。
『ククッ、そんなのいつものことだろう?』
火宮がいたならきっとそうして、少し意地悪く目を細めて鼻で笑うだろう。
だけれど今の俺には、その想像すらも自らを穿つやいばとなった。
「いつも…。あぁ、いつも俺は、そうして火宮さんに甘えてばっかで…」
本当は嫌じゃない?
世話の焼ける使えない恋人だと思わない?
頭をもたげた弱気はどこまでも、俺の心を堕としていく。
「っ、と、とにかく起きるか!」
パァンと両手で頬を挟んで、そっとベッドを抜け出す。
ひやりとしない足の裏は、火宮が床暖を調節していってくれた証。
「モテる、わけだよな…」
1つ1つの気遣いが全て優しい。
「っ…誰もが欲しがる…」
この俺の座。
ゾクリ、と寒くなったのは、決して物理的な気温のせいではなかった。
「ちわーっす。お邪魔します」
朝昼兼用のような、中途半端な時間に食事をしていた俺は、玄関から響いた明るい声に顔を上げた。
「っ!浜崎さんっ!」
ニカッとした元気な笑顔がリビングに覗き、そのピンピンした姿にホッとする。
「復帰したんですね!退院おめでとうございます」
あの事件以来初めてマンションに顔を見せた浜崎に、思わず立ち上がった俺の後ろでガタンと椅子が倒れた。
「おかげさまで。ご心配おかけしたっす」
ペコッと頭を下げる浜崎は、何1つ悪くない。
「俺を護ってもらったせいです!心配は当然でっ…本当に、本当にありがとうございました!」
深々と。身体が2つに折り曲がるほど頭を下げてもまだまだ足りない。
じっと床を見つめたまま固まっていたら、浜崎のワタワタした声が聞こえてきた。
「やめてくださいって!だから、伏野さんはっ…」
「だって…」
「オレは本当、ただ仕事でやっただけのことっすから!ねっ?」
「でも…」
「あんまりそうやって伏野さんがオレに情をかけてくださると、オレまた伏野さん付きを外されちゃうっすから…」
お願いしますー、と目の前の床に膝をついて顔を覗き込んでくる浜崎の眉が、へにゃりと情けなく下がっていて、思わず吹き出してしまった。
「ぷっ、あはは。ヤクザさんがそんな顔!」
「そりゃ、こうもなりますよぉ。オレ、伏野さんのお付き、ずっと続けたいって何度も言ったっすよねー?」
後生ですから、と拝まれては、いつまでも意に逆らっているわけにもいかない。
「ありがとうございます」
「はい。これでお終いっすよ?もうオレの怪我のことは忘れてください。約束っす」
「はい」
ごめんなさい。そのいいお返事は嘘だけど。
俺はきっと一生、あの日身代わりに流されたあなたの血の熱さを忘れません。
「うし!あぁぁ、椅子が倒れてますっ…」
パッと素早く椅子を直してくれる浜崎は、傷の痛みも後遺症ももうないのか。
約束してしまったからには、具合はどうとは聞けないけれど。
「えっと…今日はどうしたんですか?」
宅配便の荷物を持っている様子もなく、ハウスキーパーを連れている気配もない。
見えるのは小さな紙袋を手にしていることくらいだけど、まさかただ遊びに来たと言うわけではないだろう。
「あぁ、今日はっすね、お見舞い、1度来ていただいて、ありがとうございました。お礼とまた復帰しますっていうご挨拶とで、快気祝い持ってきたっす!」
これ、と差し出された紙袋から、思わず身を引いてしまう。
「や、そんなの、いいですから!」
「いやいや、本当、大したものじゃないんすよー。伏野さんなら、会長にいくらでも好きなものとか高級なものとか買ってもらえるの、分かってるっすけどね…」
「いえ、その…」
「本当、気持ちなんで!あっ、中見てくださいよ」
ほら、と押し付けるように突き出されてしまい、俺は恐縮しながらそれを受け取った。
「ありがとうございます…」
「快気祝いって、消えて無くなるものがいいらしくって。何がいいか考えたんすけど、伏野さん、料理するでしょう?」
「はい…」
「そしたら、ちょっと珍しい調味料なんすよ」
特定の店でしか扱ってない、と得意げな浜崎の顔の期待に応えて、俺は紙袋の中身をテーブルに取り出した。
「わ、あ。なんですか、これ」
お洒落な小瓶がいくつも入った小箱が出てきた。
「下に紙が入ってて、中身の説明が書いてあるっす」
「へぇ…フルーツ醤油、ハーブソルト?わ、このおダシ、初めて見ます」
「でしょー?」
ニカッと得意げに笑う浜崎が嬉しそうだったから、俺はありがたくそれらをいただくことにした。
「じゃぁ使わせてもらいます」
「ぜひ!それじゃ、オレはこれで…」
「あっ、待って…」
そそくさと去って行こうとする浜崎の腕を思わず取っていた。
「っ、な、なんすかっ?」
あからさまにギクッ、と強張った浜崎の手を、俺は慌てて離す。
「あ、すみません…」
「いえ…。あの、あまり不用意に触れないでもらえると助かります…」
「すみません…」
「いや、伏野さんが嫌とかじゃないっすよ?ただあまりに咄嗟に手を出されると、反射的に反撃してしまうっていうか…」
オロオロと距離を開けていく浜崎に、俺は曖昧な笑みを向けた。
「それにっすね、会長の伏野さんに触れたら…そんなの会長に知られたら、触れられた場所が消えて無くなるっすから!」
「あははー」
また出た、それ。
真鍋もおんなじこと、真顔で言ってたっけ。
「すみません」
「いえ。で、その、なにかご用なんすか?」
「あ、はい…」
呼び止めたのは他でもない。
「あの、ちょっと教えて欲しいことがあるんです」
「はぁ。オレで分かることなら」
うん。多分分かる。
「知りたいのは、姐さんってやつについてです」
「え?姐って…えぇぇぇーっ?!」
な、なに?
突然目を丸くした浜崎の絶叫が、ど派手にリビングに響き渡った。
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