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第205話
そうして何だかんだで、無事にたどり着いた火宮の会社…実質は蒼羽会事務所に足を踏み入れた。
途端に、「おはようございます」とか「お疲れ様です」とか、あちこちから野太い声が向けられる。
「ね、ねぇ、火宮さん?」
「なんだ」
「なんだって…」
明らかに火宮に向かっている挨拶なのに、「うむ」って感じだけで、声も発さなければ、視線さえ向けないでスタスタ歩いていくってどういうこと。
「挨拶…返さないんですか?」
周りも気にした様子がないところから、これが通常なのかと思うけど、俺には違和感たっぷりだ。
「ふっ、俺が?」
「それはそうですよ」
「ククッ、そんなことをしてみろ。槍でも降るかと大騒ぎになるぞ」
「えー」
つまりそれほど、この状態がこの人たちの当たり前なわけか。
「ヤクザ社会って本当分かりません」
「ふっ、まったくおまえはな…」
ザワッと殺気立った空気に、やばい、と思ったのは一瞬で、次にはどよどよと動揺が広がっていったのが分かった。
『か、会長がお笑いになった?』
『いや、幻覚だろ?』
『会長にご表情が…』
ざわめく空気は一体何なのか。
「な、なんか…火宮さん」
「ん?どうした」
どうした、って、何かすごく見られている気がするんですけど…。
「ククッ、気にするな」
「気にするなったって…」
「それより翼、おまえ、どうする?」
「え?」
どうするって…?
「おまえへの用事までには大分時間があるから、待つことになるが、下の幹部室ででも遊んでいてもらうか?」
「遊ぶって…」
「真鍋と池田辺りが構ってくれるだろう」
うー、火宮さんは仕事か。
「それとも会長室にいてもいいが、俺は仕事をするから、退屈させるぞ」
「会長室!」
馬鹿だなぁ、火宮さん。
火宮の仕事をしている姿を見るのが、俺に退屈なわけがない。
多分、いくら眺めていても飽きない自信がある。
「ん?何だそのだらしのない顔は」
「だらっ…ふんっ、だ。男心が分かってないのは火宮さんもですもんね」
ベーッ、と舌を出してやれば、途端にスゥッと細くなる火宮の目。
「な、何ですか…」
調子に乗りすぎたかな…。
「ふぅん…」
「っ…」
だから、その意地悪な視線は何!
意味深な吐息を漏らして黙るとか、勝手にあれこれ想像して怖くなる。
「ククッ、分かった」
「え…」
「俺が仕事をしている間、退屈しないようにオプションをつけてやる」
喜べ、って…。
ニヤリと笑うそのサディスティックな表情には、嫌な予感しかしないんですけど。
「翼の好きな、楽しいことだ」
「ま、待って下さい。それ、絶対に楽しいのは火宮さんだけですよね!」
この顔。
「会長室のソファで、ロー…」
「いらないっ!全力で遠慮しますっ!」
思わず遮ってしまったその先は、「ローター仕込んでイき地獄」…とか言うに違いない。
「ククッ、遠慮するな。今用意してやる」
不敵に笑いながら、胸ポケットに手を突っ込んで…。
「ちょっ、ちょっと待っ…」
仕事に来たんですよねっ?
何でポケットにそんなものを常備しているんですか!
焦って手を伸ばしてそれが出されるのを阻止しようとした俺は…。
「は?え?あれ?スマホ…?」
「クックックッ、何だと思った」
「っーー!」
ニヤァッ、と、それはそれは鮮やかに、勝ち誇ったような笑みを浮かべた火宮が、素早くスマホを操作して…。
「真鍋か。翼の時間潰しに、携帯ゲーム機を用意しろ。…あぁ。…種類?任せるが、RPGで良さげなものがあれば」
っ!
やられた…。
会話を終えた火宮が、スマホをしまって、ゆっくりと俺を見下ろす。
「で?翼?」
「っーー!」
このどS!
「ロールプレイングゲーム、好きだろう?」
確信犯!意地悪!馬鹿火宮!
「違ったか?」
ニヤリ。
もう本当、その最高に愉快だっていう笑み。
「嫌いーっ!」
思わず叫んだ瞬間、キラリと意地悪な光が火宮の目に宿って…。
『何を想像したんだろうな?淫乱な翼は』
「っーー!」
わざわざ耳元で囁いて、ベロッと耳穴を舐めていった火宮に、ゾワゾワと寒気が湧いた。
「ククッ、欲求不満か?」
あまりに愉しげに笑われて、プツンときた俺は、火宮の足の前にサッと引っ掛けるように足を出してやった。
「ふっ、ガキ」
「っーー!意地悪っ!」
その足は、わずかも歩幅を乱すことなく、もちろんつかえて転ぶなんて無様な真似もするはずもない火宮に、ひらりと華麗に躱された。
「失礼いたします、会長、翼さん、おはようございます。いきなりですが、翼さん」
「え…」
ちょうどエレベーターホールにたどり着いていたのか。
真鍋がいつの間にか出迎えに下りてきていた。
「ここで会長に危害を加えますと、あの者たちに袋にされます」
「っ!」
そうだった。
ここは蒼羽会事務所。火宮の城だ。
遠巻きに俺たちを見ているのは、火宮命の構成員さんばかりで…。
「や、あの…」
やばい?俺、やばいよね?
恐々と火宮の袖につい縋り付いてしまったら。
「ククククッ、真鍋、そう脅すな。俺のイロに手出しできる者など、ここにはいない」
「そうですね。失礼いたしました」
「俺を除いては、な」
っ!
ニヤリと頬を持ち上げたその悪い顔は…。
「っ、ご、ごめんなさいっ!」
思わずパッと火宮から距離を取り、とりあえず謝ってしまえの先手必勝白旗宣言。
「ふっ…その怯えきった顔…」
「っ…」
だってあなたのスイッチを押したらどんな目に遭うことか。
悲しいかな俺は、経験上よく知っている。
「ククッ、その可愛い顔に免じて不問にしてやるか」
「相変わらずお甘い」
「まぁそう言うな。例のあれは?」
「10時半にはこちらへ来れるそうです」
「分かった。来たら直接会長室へ寄越せ」
「かしこまりました」
急にピリッとした仕事モードの空気に切り替わってしまった火宮を見ながら、俺はソロソロと距離を戻した。
「ほら翼、行くぞ」
「う、はい…」
くしゃっと髪を掻き混ぜてくれた火宮は、どうやら本気で俺を咎めるつもりはない様子で。
俺はホッとして、その火宮と、真鍋が止めてくれていたエレベーターに乗り込んだ。
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