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第208話

ーー翼。結婚しよう。 「っ…何、言ってるんですか…」 『養子縁組届』と、5文字の漢字が1番大きな文字で書かれた書類を持った手が震えた。 「何って、プロポーズだろう」 ケロッと当たり前のように返してくるけど、そうじゃない。そうじゃなくて…。 「だってこれ…」 「あぁ。今の日本じゃ、同性婚はまだ認められていないからな」 「そ、うです、けど…」 だからって、何でまずそもそも急に結婚だなんて。 「ふっ、言っただろう?」 「え…?」 「俺はおまえの望みなら、何だって叶えてやると」 聞いた、けど…。 「俺はおまえ以外の誰とも結婚はしない。おまえ1人を一生愛し抜く。ただ1人、おまえと共に生きていく。その言葉に嘘はない」 「っ…」 知ってるよ。分かってる。 その想いを、俺はもう疑ってなんかいない。 「だが…以前、誰かに言われたな。『口では何とでも言える』」 「っ!」 あぁ、前にサエが、そんなことを言っていたけど…。 「確かにそうだ。想いは目に見えない。言葉だけでは揺らぐこともある」 「っ、それは…」 今回の俺がまさにそれか。 「責めているわけじゃない。心に確かな形はないんだ、自信をなくすこともあるだろう。だからな、翼。これは、俺に示せる、口では何とでも言えるその言葉の、1つの形だ」 「っ…」 「翼、俺の想いだ。受け取れ」 「っーー!」 何だろう。目の前がぼやけて、火宮の顔が上手く見えない。 笑ってる?真剣な顔? いつもの不敵な俺様の笑み? 「っ、俺、は…」 「火宮翼、か。…悪くない」 「っ!俺は…」 嬉しいよ。確かに嬉しい。 泣くほど、心が震えるほど、本当に嬉しい。 だけど…。 「翼?何を迷う」 「っ…俺は…」 こんな書類を用意してくれて、こんなに真剣に想いを伝えてくれて。 「ありがとうございます。でも…」 「翼?」 「俺は、サインできません…」 ごめんなさい。 あなたの気持ちは本当に嬉しい。 だけど、嬉しいから余計に、俺はまだ…。 「翼」 断られることなんて、少しも予想してなかった顔だ、ね。 「何故だ」 「っ…俺…」 「翼」 「っ、俺、嫌なんじゃないんですよ?」 それは誤解しないで欲しい。 「本当に嬉しくて、もちろんすぐにだって頷きたい。だけど、だけどね、火宮さん…」 「………」 あ。機嫌、悪くなってる。 ギュッと寄せられた形の良い眉からそれが分かるけど、それでも激昂を見せずに俺の言葉を待ってくれているところに、火宮の大きさを感じる。 「っ、だから…」 「翼?」 ポロ、と落ちてしまった涙は、不甲斐ない自分への情けなさだ。 「俺にっ、こうして何でもしてくれる。我儘を聞いて、願いを叶えて、今現在のことも、将来の保証も、全部全部してくれて…俺を本当に本当に愛してくれている火宮さんだからっ…」 「あぁ」 「だから俺はっ、これには簡単に頷けませんっ。俺はまだ、あなたの籍には入れないっ…」 まだまだ未熟で、まだまだ何の覚悟も無いままに、受け取るものだけもらえない。 「…何をそう難しく考える」 話を聞いても理解に苦しむ、といった顔でムスッとなった火宮には、申し訳ないけど。 「考えますよ…。俺も男です」 「あぁ。だから婚姻という形を取れないのが、本当に悔しくはあるが」 「っ…」 「この先、同性婚に関して法が整うとしても、何年先になるかなんて分かったものじゃない。パートナーシップという制度はあるにはあるが、取り入れている自治体が限られているし、住民登録や年齢など、制約が多く、法的な効力は何もない」 それは知らなかったけど…。 「俺は、俺に万が一があったとき、翼にはきちんと暮らしていけるだけの財産を、残してやりたいと考えている」 「っ…そんなの…」 「おまえがいらないといっても、俺は残すぞ。だから余計に、パートナーシップではなく、養子縁組みがいいと考える。まぁおまえが他人のままでも、遺贈という手はあるが、おまえは納得しないだろう?」 当たり前だ。 「俺はこれ以上、あなたのお金はもういらない。お金が欲しくてあなたといるんじゃないっ」 あなたが死んで手に入るお金なんて、それこそ受け取りたくない。 「ククッ、おまえがそう言うのは分かっている。だけど俺は、順番通りなら、まず俺の方が先に逝く。それに俺の立場は、身の保証が普通よりされにくいことは分かるな?」 「っ…」 分かるけど。 火宮は裏社会の人間で、常に護衛を連れて歩かなきゃならないような立場の人間だ。 それでだって安全と保証されているわけじゃない。 「だからおまえと籍を入れて、おまえを法定相続人にしておきたいっていうのもある。それなら遺言で一発だ。話が早い」 「それが、だから…」 フルフルと首を左右に振る俺を、どうしたら火宮に分かってもらえるだろう。 「翼…」 溜息、か。 そうだよな、こんなに俺だけを想って、俺のことを将来に渡ってまで考えてくれているのにね。 「っ…俺は、ね、火宮さん。あなたのその気持ちがすごく嬉しくて、だけど同時にね、すごくすごく悔しいんです。すごく、重い」 「ッ…」 「違う!悪い意味じゃないっ!俺はっ、火宮さんのその重みに、全然応えられていないからっ。釣り合っていないのが分かるからっ。それが、嫌なんです」 難しい顔をして首を捻る火宮には、分からないかな。 だけど。 「俺に喜びもお金も愛も、あらゆるものをくれる火宮さんに、俺があげられているものは何ですか?はは、愛しかない」 「それだけあれば十分だろう」 いいえ。 「いいえ!」 ブンブンと左右に振る首から、パラパラと涙が散った。 「俺はおまえが傍にいさえすれば、それだけで幸せだ」 「っ、俺も同じですよ?同じだから…だから余計に」 「あ、ぁ…」 「俺だけ余分にもらってる。この書類。俺にはこんな風に用意できなかった。俺にはこんな風に堂々と、法的にも俺のものになって下さいなんて言えないっ…」 あぁ困った顔。 でもそれは、俺の言いたいことが分かってくれた証拠だね。 「あなたと縁組みしたところで、もし、もし先に俺が逝くことがあったら?俺はあなたに1円も遺せてない」 「………」 「それに俺は…火宮さんを本当に愛しています。だけどまだ…あなたのいる世界に完全に染まる覚悟が、出来ていない」 「………」 「ごめんなさいっ、情けなくて。だけど俺…姐さん、って位置に堂々と立てるほど、まだ自信も経験も知識もない。みんなが認めてくれるとか、多分火宮さんは関係ないって言うかもしれないけれど…」 震えるな、俺の声。 一言も聞き漏らさないと耳を貸してくれている火宮の心に、ちゃんと届けるんだ。 「俺はっ…やっぱりみんなに…火宮さんを慕うみんなに、ちゃんと、あいつでよかったって。会長の隣に立つのがこいつでよかったって、認めてもらって、側にいたいから…」 だから、まだ今の俺じゃ駄目なんです。 この書類にサインはできない。 「クッ、おまえは…」 「ごめんなさい…」 「ククッ、相変わらず、男前だな…」 しょうがない、って顔をして、苦笑している火宮が見えた。

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