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第212話

シュッ、シュッと目の前で赤丸がついていく答案を、ドキドキしながら眺める。 微妙に機嫌のよろしくない真鍋の家庭教師の時間。 ピリピリとした緊張感に包まれながら、俺はこっそりと、小テストの採点をしている真鍋を窺った。 「………」 「……ぁ」 シュッ、と最後の1問に大きな丸がつく。 用紙の1番上まで戻ったペン先が、サラサラと3桁の数字を書いていく。 「満点です。よく頑張りました」 シャッ、と数字の下にラインを引いた真鍋の無表情が、一瞬だけ緩んで、微かに弧を描いた目が俺を見た。 「はぁぁっ、よかった」 「さすが、優秀な頭脳をお持ちでいらっしゃる」 「あは。真鍋さんの教え方がとても分かりやすいから…」 本当、この優秀な家庭教師の力は大きいと思う。 「お褒めに預かり光栄です」 淡々と、見事に無感情なのがさすがだ。 「まぁこの調子でしたら、4月からの編入も余裕でついていけるでしょう」 「そうですか?」 「いえむしろ編入早々トップクラスに食い込むのではないですか?」 「え!」 確か、指折りの進学校って聞いた気がするんだけど…。 そんなハイレベルそうな学校で、1度は中退した俺が、トップクラスってことはないんじゃ。 「あなたはもう少し、自信をお持ちになってもいいと思いますよ」 「うーん…」 「ちなみに編入後も、トップクラスを維持していただきますから」 「え?」 その淡々と無茶振りするところがどSだ。 「生徒には知らされないとはいえ、職員にはあなたが誰の後見で入学するかは知れますからね」 「あー」 「会長の名を汚すことのありませんように」 「う…」 まぁ見事に重いプレッシャーをどうも…。 「会長も、あなたがトップクラスをキープなさることをお望みかと」 「そ、うですか?」 まぁあの天才からしたら、トップ以外ありえないとでも思っていてもおかしくないかもしれないけど…。 「勉強に関して困るようなことがあれば、いつでもご相談下さい」 スッ、と綺麗に頭を下げる真鍋は、4月からも家庭教師をしてくれるのだろうか。 「一応、会長からは、編入前までのお約束ですが。とりあえずお通いになってみて、その様子次第で、いくらでも融通はききますので」 もし学校が始まってみてついていけなかったら、面倒見てくれるってことか。 「ありがとうございます」 本当、冷たいんだけど、実は面倒見がいいんだよね。 「いえ。会長のお名前のためですから」 そう言って、俺が困らないようにしてくれるんだよねー。 「何ですか?」 「いーえ。ふふ、それにしても真鍋さんも、すっごく頭がいいですよねー」 ヤクザのくせに。 「何か」 「あ、いえ?言ってませんよね!」 「ですからあなたは目が…いえ。まぁ、高校程度の学習でしたら、なんら分からないことや難しいようなことはありませんからね」 うわー、ここにも天才が? 「真鍋さんも、高校って行ってましたよね?やっぱりトップにいました?」 「トップ以外を取れる意味が分かりません」 「うん。なんか分かってた」 サラリと言い放たれるそれは、完全に嫌味ですけどー。 「まぁ私の場合は、会長などとは違って、努力の上の結果ですが」 「え?」 「会長のような天才タイプではありませんので」 「あー、秀才ってやつですか?え!真鍋さんが勉強頑張ってるとか、想像つかないんですけど」 っととと、ちょっと失礼だったか? 「喧嘩でしたら買い取りましょうか」 にっこりと、口元しか笑っていないその顔やめて! 「売ってませんっ。ごめんなさいっ」 誰が好き好んで、火宮以上のどSと分かっているヤクザの幹部様に喧嘩を売るものか。 「まぁいいでしょう。そうしましたら、次回は…あぁもう、最後までですね」 パラパラと教科書を捲った真鍋が、サラリとニコリと告げて下さった。 「っ!鬼真鍋ーっ!」 確かにページ数自体は残り少ないよ? だけど、積み上げた全教科を示すってどういうこと。 教科ごとの残りページが、積もり積もれば、いつにも増して相当な量になるんですけど。 「さっきの言葉への嫌がらせ?」 「まさか。順当な課題です」 「意地悪ですよね」 「文句がおありで?」 う…。 キラッと光らせたその鋭い目がズルい。 その後絶対に「会長に言いつけますか」って続くのが分かるから、黙るしかなくなる。 「うーっ…」 「文句がないようですので…」 なんか悔しい。 この人、1度、ぎゃふんと言わせたい。 命知らずな考えを思い浮かべながら、俺はふとあることを思いついた。 「夏原さん…」 「………」 あ、効果アリだ。 わずかに。本当にほんのわずかに、「夏原」の名前を言った瞬間、ピクッと真鍋の目尻が震えたのが見えた。 「お洒落で、こう、シュッとした美形で、弁護士さん。この間初めてお会いしたんですけどー」 に、ぃっ、と笑った顔を自覚した。 「それが何か」 さすが、すぐにいつもの無表情に戻ってしまうのは真鍋だ。 でも一瞬動揺したのは分かっているんだからね。 「格好いいですよね。真鍋さんはどう思います?まさか苦手とかは言いませんよねー?」 ほら困れ。さぁ困れ。 困ってオロオロしろー。 悪い考えを浮かべながら、じーっと見つめた真鍋の口が、ゆっくりと動く。 「どうと仰られましても、個人的感情などは特に。彼はうちの優秀な顧問弁護士で、お世話になっております」 「えー、嘘ばっかりー」 苦手で逃げ回ってる、って知ってるもんね。 「………」 「え?」 突然、その凍てつくような冷ややかな視線は何。 「お洒落で、美形で、格好いい、でしたね」 「え?何…」 「分かりました。会長に、翼さんがそう夏原先生を褒めていらっしゃったとお伝えしておきますね」 にーっこり、と、氷河期並み冷ややかな表情からの鮮やかな微笑みってどんな技! しかも背中に背負っているのが吹き荒れるブリザードなのが器用すぎるんですけど…。 一気に立場が逆転して、非常に不味い状況に追い込まれているのが俺の方だということに気づき、サァッと顔から血の気が引いた。 「待って!真鍋さん!」 「申し訳ありませんが、この後の予定の時間が押していますので」 失礼しますって、待ってー! 「あーっ…」 慌てて引き止めようとした声は華麗に躱され、綺麗なお辞儀と、とってもとっても冷たい笑顔を残して、真鍋は去って行ってしまった。 「やばい…。仮にもヤクザの幹部に喧嘩売るんじゃなかった…」 1度は思い留まったのに…と思っても後の祭り。 『翼、俺じゃない他の男を褒めたんだって?』と意地悪な笑みを浮かべて迫ってくる火宮の顔が浮かぶ気がする。 「っ…」 自業自得とはいえ、やってしまった後悔と、盛大に漏れる溜息が止まらなかった。

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