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第219話

ーーーーーーーーーー それは、真鍋が予備試験に合格し、司法試験在学中合格を目指して頑張っているときだった。 妹も、高校に上がり、慣れてきたところで、放課後のバイトを始めていた。 「条件がある。決して遅くならないこと。1人になりそうなときは、必ず電話を寄越すこと」 人一倍綺麗な妹を、真鍋はとても大切に、とても大事にしていた。 「分かってるって、お兄ちゃん。ちょっと心配しすぎだから」 シスコンっていうんだよ、それ。なんて生意気にも鮮やかに笑う妹は、真鍋の何よりも大切な宝物だった。 けれど。 その妹は、真鍋の心配通り。 ある日、その身を穢された。 ーーーーーーーーーー 「っ…それ、って…」 愕然とした俺に、真鍋は凪いだ表情のまま、静かに頷いた。 「バイト帰りに…あの日はたまたま他のバイトの子が休んでしまって、少し延長してシフトに入って…」 「っ!」 「必ず電話を入れろと言ったのに…。彼女は試験に向けて頑張っている私に遠慮してしまったのでしょう」 「っ…」 「彼女は、暗くなった夜道を1人で歩き…1人の男に…」 ぐっ、と唇を噛み締めた真鍋は、いつになく感情的で、とても人間らしく見えた。 ーーーーーーーーーー 「どうして。どうして!どうしてっ…」 ダンッ、と床を踏み鳴らした真鍋に、妹はただ黙って涙を流したまま、フルフルと首を振った。 「被害届けを出さなければっ、告訴しなければっ、そいつを、裁判にはかけられないっ」 考え直せ、口を開け、と迫る真鍋にも、妹は黙ったまま首を左右に振った。 「プライバシーなら、ちゃんと守られる。おまえの名前も出ないし、内容も決して外部には漏れない…」 「でもお兄ちゃんには知られちゃうじゃない」 事件後、初めて妹が口を開いたのは、そんな一言を放つためだった。 「そ、れは…でもっ」 「ごめんね」 泣きながら微笑む妹の、その言葉が何に対してのものなのか、真鍋には分からなかった。 「な、んで、おまえが謝る…。おまえは何も悪いことはしていないっ。悪いのは犯人だ。だからっ、考え直せ。犯した罪を、何の咎も償いもなく野放しにするのはっ…」 「分かるよ」 「じゃぁっ…」 「分かるよ、お兄ちゃんは検事になる人なんだもん。その正義は、分かるよ?だけどね、お兄ちゃん」 真っ赤に腫らした目で、妹は真っ直ぐに真鍋を見つめた。 絶望と僅かな狂気、真っ黒く濁った、妹のその目を見た瞬間、真鍋には、もう何も言えなかった。 「お兄ちゃんにだけは、絶望して欲しくない」 凛として、真っ直ぐに告げられた、妹の最後の言葉だった。 息を飲んで固まった真鍋を見つめたまま、妹はただ1つ、深い深い瞬きをした。 妹はこの言葉を最後に、2度と口を利くことはなかった。 ーーーーーーーーーー 「っ!そ、れは…」 「妹が息を引き取ったのは、それから数週間後のことです」 「っ…」 「けれどその数週間、妹はただ息をして、鼓動を繰り返しているだけという、ただ医学的に生きているという状態でした」 それはつまり…。 「妹は、最後のその言葉を残した後、一切の食べ物を受け付けず、水すらも口にしてくれなかった。見兼ねて入院治療を始めましたが、事態はまったく好転することはありませんでした」 「っ、う…」 その日々を真鍋はどんな思いで過ごしていたのか。 想像するだけで息が苦しくなった。 「カウンセリングも効果はなく、それどころかやがて、妹の目には、私の姿すらも映らなくなりました。ただ瞬きをして呼吸を繰り返すだけの人形…。あの頃の妹は、まさにそのものでした」 「っ、ま、なべ、さん…」 「まるでゆっくりと消えて無くなるのを待つかのように。私はただ必死で、毎日彼女の心を呼び戻そうと叫び続けた。最高だと思われる医療もすべて受けさせました。けれども彼女は…っ」 「真鍋さん…」 「その目に2度と光を映すことはなく、絶望の中、静かに衰弱して、死にました」 ヒュッ、と鋭く飲んだ息が喉に絡まった。 「強制性交等罪」 「え?」 「今でこそ、そういう名の、告訴なしでの起訴が可能な法が整備されましたが…当時は」 「っ…」 「私には、何が正しくて、何が間違いなのか、もう分からなくなってしまったのです。警察、検察の無力さを思い知り、告訴なしには何もできない法を、諦めかけたそのときでした」 それは、検察官を目指していた真鍋には、どこまでも辛く、行く道を迷わせるには十分の出来事だったはずで。もういいだろう。もう十分だろうと思うのに。 「現実は、いとも容易く、そしてどこまでも残酷に、私に留めを刺しに来たのです」 穏やかな目をして語る真鍋の、今に続く道の始まりが、そこに、あった。 ーーーーーーーーーー それは、妹を、病院から家へと連れ帰る手配をしているときに、偶然真鍋の耳に飛び込んできてしまった話だった。 「え…心神喪失…?」 確かに聞こえてきたその言葉を、聞き間違いだと思いたかった。 けれども真鍋が聞いているとも気づかずに話される会話は、確かに妹の事件に関する噂話で。 「っ…まさかあいつは…」 知っていた…? そう考えれば、すべての辻褄が合った。 「絶望、しないで欲しい…だと?」 無理だ。 目の前が真っ暗に染まり、これが本来の絶望なのだと、真鍋はこのとき初めて知った。 『告訴はしない』 それは、暴行の内容を、明るみにするのが嫌だったわけではなくて、それが無駄になると知っていたから…? 妹の言動を1つ1つ思い出し、真鍋は深く深く絶望の闇を広げていった。 『でもお兄ちゃんには知られちゃうじゃない』 それは、どんなにか残酷な暴行の内容の話ではなく…裁判になっても、罪に問えないということの、現実、を…? ドクンッ、と1つ、大きく鼓動が跳ねた。 『お兄ちゃんにだけは、絶望して欲しくない』 法に。検察官という職業に。 司法を。その無力さを、汚さを。 本気で憎ませずに、いたかったから…? 「示談案を持ってきた、あの弁護士かっ…」 妹に何を吹き込んだ。 「心神喪失だと…?」 人1人の人生を奪っておいて、善悪の判断ができなかったで許されるかっ…。 「ふざけるなっ…。ふざけるなっ!」 ダンッ、と殴りつけた廊下の壁に、微かな赤い血の跡がついた。 「っー!法が裁けないのなら…」 真鍋はそのとき、闇に堕ちた。 ーーーーーーーーーー 「っ、真鍋さん…」 「私は法に、司法に、検察官になるという道に、見切りをつけました。妹が1番望まなかったことをしようとしていることさえ、怒りが勝って気づかなかった。 「っ…」 「法が、私刑を抑制するためにあるということは、十分分かっていましたよ?けれどもそれを凌駕する感情を、私は自制できませんでした」 あぁ、この人、も。 「私は、弱い」 ピーンと張り詰めた空気に、思わずゴクリと喉が鳴った。

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