224 / 719

第224話

ーーーーーーーー 独立して立ち上げた、自分の法律事務所の運営を軌道に乗せ、夏原は狙った獲物を捕らえに行こうと、計画を立てていた。 「まずは司法修習の弁護士修習、真鍋能貴を確実にうちの事務所に引っ張るとするか」 ふふん、と鼻歌を歌いながら、夏原は手元の書類を呑気に眺めていた。 だが、その目がふと怪訝な色に変わり、最後には完全に見開かれて止まる。 「え…?なんで?合格…していない?」 書類を持った手がプルプルと震え、目がせわしなく何度も何度も書類の文字を追い直す。 「嘘だろ?あいつが受からないわけがない…。なんで…合格者の中に、名前が、ない…?」 ど天才だと噂されていたんだ。 まさか体調管理にしくじって受け損ねたなんてヘマをするとも思えないし、落ちたなんてことはもっとありえない。 「何かの事情で、受けなかった?まさか来年に見送ったわけでもないだろう…?」 予備試験を受けて通ったからには、そのまま司法試験を受けるつもりだったはずだ。 「チッ。考えていてもラチがあかない。大学行ってくるか」 思い立ったら即行動。 夏原はバサリと上着を引っ掛けて、事務所を飛び出して行った。 「え?退学した…?」 大学の事務室で、真鍋を呼び出すよう願ったところで、夏原は衝撃の事実を知った。 「何故…」 問いかけたところで、事務員がその理由を知っているわけもなく、書類には一身上の都合としかきっと書かれていないことだろう。 「クソッ。ちょっと目を離した隙に、一体何があったんだよ…。この俺が、狙った獲物をあっさり逃してたまるかよ」 とりあえず学内を歩き回り、真鍋の同期や知人を探して回った。 けれど、事情を知っている人間どころか、友人1人見つけられない。 「ったく、どういう学校生活してたわけ?」 こんなに人間関係が希薄なタイプだったのか。 手掛かり1つ見つけられずに、苛々とし始めたとき、ふと在学中にお世話になったゼミの教授が歩いて来るのが見えた。 「あっ、先生!」 「ん?んー?…夏原くんか!いやぁ、久しぶり」 「ご無沙汰しております。先生、いきなりですが、真鍋能貴をご存知ですか?」 まぁ知ってるは知っているだろう。 何せこの法学部の万年トップだった男だ。 「真鍋くんなぁ。本当、惜しいよな」 「っ!先生…あいつが辞めた事情をご存知で?」 「詳しくは知らんよ。ただ、妹さんを亡くして…。最後の1人の家族だったらしい。きっとそれで、何もかもにやる気をなくしてしまったんだろうなぁ」 実に惜しい、と嘆く教授が持つ情報はそれだけだった。 けれど夏原には、それだけ知れただけでも進歩だった。 「ありがとうございます!俺っ、急ぎますのでこれで!」 「あ?あぁ。…夏原くん、たまには大学に遊びにきて、後輩たちに喝を入れてやってくれー」 「はいー、またの機会にー」 すたこらと去っていく夏原の返事が、講義室前の廊下に尾を引いていた。 そのまま大学を飛び出した夏原は、妹の死というキーワードを元に、真鍋の消息を調べ始めた。 優秀な調査員を抱えている夏原は、それから間も無く、真鍋の現在の居場所を突き止めた。 「蒼羽会…。ヤクザか」 はぁっ、と思わず溜息が漏れる。 「理由もなくいきなり海に沈められはしないだろうけど…」 あまり好きこのんで行きたい場所ではない。 「どうか手遅れであってくれるなよ…」 すでに取り返しがつかないんじゃないかという不安と、それでも取り戻しに行きたいと思ってしまう諦めの悪さに笑いが漏れる。 「っしゃ!」 気合いを入れて、蒼羽会の事務所だと調べがついた、見た目は普通のオフィスビルに向かった夏原は、たまたま偶然、ビルのエントランスから出てきた真鍋を見つけて足を止めた。 「ま…」 咄嗟に声をかけようとした夏原は、真鍋に続いて、深い闇色をした男が出てきたのを見て、声を途切らせた。 まるで闇の化身だ。 そこだけ明らかに空気が違う。 周囲の者を従え、圧倒的な存在感を放つその男が、会長だ、ということはすぐに分かった。 「っ…」 さすがの夏原も、ゾクリと鳥肌が立つのを止められなかった。 勝てない。 瞬間的にそう思うだけのオーラを放つ人物に、足が引けたとき。 「っ!」 真鍋が丁寧にその闇色の男に傅き、従う様を見て、プツンとどこかが切れた。 「真鍋能貴っ!」 気づいたときには、タンッと地面を蹴っていた。 真鍋と闇色の男が振り返るより早く、目の前にザザッと数人の黒スーツの男たちが立ちはだかった。 「真鍋能貴!」 伸ばした手は黒スーツの男たちに払い落とされ、グイッと両腕を後ろに回されて押さえつけられた。 「どこのモンじゃ、我ぇ」 ドスの効いた低い声が掛けられる。 あぁ、襲撃と間違えられたか、とどこかが冷めつつ、顔だけを上向けた。 真鍋と闇色の男が冷たい目をしてこちらを見ている。 「真鍋能貴…」 あぁ、この目だ、と思った。 あの講義室に入っていった瞬間と同じ。 冷たい色をしているのに、泣けるほどに美しい、2つの光。 初めて見たときと同じ、意志の強い、真っ直ぐな光を放つ目がそこにあった。 「真鍋…」 思わずふわりと笑みが漏れた。 闇色の男の目が、スゥッと眇められる 「ふっ、弁護士か。真鍋、知り合いか?」 胸のバッジをチラリと見た男の目は、真鍋にゆっくりと移っていく。 「いいえ、存じません」 ふいっと逸らされた真鍋の視線に、ドクンッと鼓動が大きく跳ねた。 「ふぅん。おい、離してやれ」 「はっ」 闇色の男の命令に、真鍋がピクンと反応したのが見えた。 不意に身体に自由が戻る。 「真鍋能貴っ!」 「おっと。俺の大事な片腕に、気安く触ってくれるなよ」 ぶわっと放たれた黒いオーラだけで、思わず縋りつこうと駆け出した足がピタリと止まった。 「ククッ、これは面白いものを見つけた」 「っ、あなたになどっ、渡さない」 「ふっ。真鍋、うちの顧問をする弁護士を探していたな」 ニヤリ、と不敵に笑った闇色の男に、真鍋の顔がものすごく嫌そうに歪んだ。 「どうだ、おまえ」 「っ、会長!この男は駄目です。使えない」 「ふっ、やはり知り合いか」 「っ…それは…」 グッと言葉を詰まらせた真鍋に、夏原はゆっくりと顔を綻ばせた。 「真鍋能貴、きみは…」 「1度しか、会ったことはありません…」 「クックックッ、それほど優秀な男だというのか」 「会長っ…」 「上等」 スッと差し出された闇色の男の手を取った瞬間、グイッと身体が引き寄せられた。 『おまえ、真鍋に惚れているな?』 こっそりと耳元に囁かれた声に、ピクンと肩が震えてしまった。 『真鍋が俺に偽りを述べるほど、光の世界に置いておきたい男か。さぞ優秀なことだろう』 この男、デキる。 直感的に認識した。 「俺に尽くせるか?」 チラリと真鍋を流し見た視線の意味は、簡単に理解できた。 「望むところです」 「クックックッ、頼もしい。共犯者になってやる」 闇を纏って不敵に笑う男にはきっと、この先ずっと敵うことはないだろうと感じた。 けれど。 「俺は、欲しいと思ったものは全力で取りに行くタチなんで」 「そうか。せいぜいあいつに人並みの幸せを得ていいと、教えてやれ」 「っ、あなたは…」 ハッ、と顔を上げた瞬間、トンッと胸を押し返されて、足元がよろめいた。 「火宮だ。蒼羽会を束ねている」 「っ…夏原海里と申します」 「分かった。真鍋、見送りはいい。こいつと顧問契約を結んでおけ。書類は会長室にある」 ヒラリと振られた手に、真鍋の顔がぐしゃりと歪む。 「っ、ですが会長っ!」 「俺の目を真っ直ぐ見返して、食ってかかってくる気概がある男だ。おまえがいくら反対しようと、無駄だ」 たとえヤクザ組織の顧問だろうと厭わないだろう。 闇色の男の言葉に、夏原は深くうなずいた。 「っ…かしこまり、ました…」 グッと唇を噛み締めて、黒塗りの車の方へと向かう火宮を、最敬礼で見送る真鍋。 「火宮…会長の言うことになら、意に沿わなくても従うんだな…」 「会長の目に狂いはありません。会長があなたを見出したのでしたら、私に文句は何も」 「クソッ…。あと少し、早くに再会したかった…」 夏原の小さな呟きに、真鍋の冷たい冷たい目が向いた。 「半端な気持ちで参りませんよう。お覚悟は」 「ふんっ。おまえに魅入られた瞬間から、決まってる」 スッと踵を返し、ついて来いと言わんばかりに事務所の入り口に戻っていく真鍋の背中に、夏原は真っ直ぐついていく。 『馬鹿な男…』 陽の当たる世界で、十分華々しく生きていけただろうに。 何を好きこのんで闇に足を突っ込む。 けれども小さく漏れた真鍋の声には、小さな小さな愉悦が揺れていた。

ともだちにシェアしよう!