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第226話
「ふぅ…さっぱりした、はいいけど、これも無事に入れちゃったな…」
ホコホコに温まった身体をタオルで拭きながら、俺は洗面所の鏡に向かって思わず問いかけた。
「どういうことだと思う?」
うーん、と首を捻った俺の顔が、困惑したまま俺を見ていた。
真鍋たちとのランチから連れ出されてから今に至るまで。
不思議なことに、火宮の魔の手が伸びてこないのだ。
店に現れたときの火宮の様子は、意地悪する気満々だと思ったのに。
「移動の車でも無事、会長室でも火宮さんは真面目に仕事をしていただけ、帰りの車も、マンションについてからも何もしてこない…」
こっちはいつ意地悪な目に遭わされるのか、ビクビクと警戒しているというのに。
火宮は一向に何も仕掛けてくる様子がない。
「お風呂にも乱入してこなかったし…」
来るか?来るのか?と警戒しながら、気が気じゃなく入浴していたのに。
結局は何事もなく、こうして風呂から上がれている。
「うーん…」
もしやこのまま何もされないとか?
淡い期待に気が緩みそうになるけど、火宮のことだ。次こそはリビングでアレやコレやを準備して、待ち構えているかもしれない。
油断は禁物。
そーっと警戒しながら脱衣所のドアを開けた俺は、リビングに火宮の姿を見つけられずにますます困惑した。
「え、いない…。書斎?」
仕事の電話が入ったときなどは、黙って自室に消えていくことがあるけれど。
「っ、と、とりあえず、何もないのか」
ホッと安堵するのと同時に、何だか拍子抜けして脱力した俺は、ソファにどさっと沈み込んだ。
「んー。寝ちゃっていいのかな…」
チラッと視線を向けた書斎のドアは、開く様子もなくシーンとしている。
「うん。このまま平和に穏やかに眠れるなら、ラッキー…」
なのに何だろう…。
何だかやけに落ち着かないというか、心も身体もザワザワする。
「何なんだ」
正体不明のモヤモヤが気持ち悪くて、俺は手近にあったクッションを取り上げて、バフバフと八つ当たり気味に座面に叩きつけた。
「ククッ、何をやってるんだ」
「っ?!」
いつの間に現れたのか。
いきなり間近から聞こえた火宮の声に、大袈裟に身体が飛び上がった。
「なんだ。もう風呂から上がったのか」
「えっ、は、はいっ、さっき…」
「そうか。もう寝るのか?」
「えっ?えーと、その…」
何だろう、これは。
ごくごく普通の会話。ごく穏やかな表情をした火宮は、それでいいはずなのに。気持ち悪い。
「どうした?」
「えっ?や、いえ別に、何も」
湧き上がる違和感が止まらない。
「そうか。では俺も、軽く一杯ひっかけてから、風呂でも浴びて来るか。おまえは寝るなら、ちゃんと髪を乾かしてからにしろよ」
ポン、と頭に乗った火宮の手に、思わずビクッと肩が跳ねた。
「あのっ…」
「ん?」
「そのっ…」
何を言おうとしているんだ、俺は。
お仕置きしないんですか?
意地悪…しないんですか?
って?
いやいや。それじゃぁまるで、俺から催促しているみたいに聞こえてしまう。
お仕置きがないならないでいいじゃないか。
ちょっと火宮に染まりすぎてるんだ。
落ち着け、俺。
「ククッ、翼」
「っわはいっ?!」
「何を1人で百面相をしている」
クックックッ、と肩を揺らして笑っている火宮に、俺は自分が思考に夢中だったことに気がついた。
「えっ?あっ、な、何でもな…」
「ククッ、本当、おまえは…飽きさせない」
「なっ…」
不意にソファに乗り上げてきた火宮が、顎を捕らえてきた。
「クックックッ、その目。あの店を出たときからずっと意識していただろう?」
ニヤリ、と意地悪く笑みを浮かべた火宮の顔が間近に迫った。
「なっ…んんっ、んっ、ふ」
ねっとりと濃厚なキスを仕掛けられ、ふにゃりと身体から力が抜けた。
「いつ仕置きをされるかとビクビクしながら。まだしないのか、次こそは、とずっと期待していたな」
「はっ?俺は期待なんてっ…」
何言ってるの、この人。
「ククッ、そうか?」
「当たり前ですっ、俺はMじゃない。ただっ、お店で意地悪言ってたから…すぐされると思って…。でもしなかったから、もしかしたら次はって…ずっと警戒してただけで」
「ほぉ?」
クッ、と笑って、スゥッと目を細めた火宮に、ゾクッと寒気がした。
あ、やばい、これ…。
「クックックッ、じゃぁ聞かせてもらおうか」
「っ、な、何を…」
ちょっと!何で両手を捕まえて、頭の上で押さえつけてくるわけ?
押し倒された身体はソファに寝転がり、足の上に乗り上げられたら、もう自由がきかない。
「まずは移動の車内か」
「はっ?」
「店を出て、すぐに意地悪されるのかと思ったんだろう?まず車の中で、何をされると想像したんだ?」
ニヤリ、と輝いたサディスティックな笑みが目の前に見えて、頭がクラクラとなった。
「ん?翼。警戒していたんだろう?何をされるのを警戒したんだ?」
ニヤニヤ。もうこうなった火宮は止められない。
経験上よく知っているこの意地悪な顔に、俺は思わず天井を仰いだ。
「ほら翼、言え」
あー、もうっ!
ようやく気づいた。ようやく分かった。
今日の火宮は、午後中ずっと、俺に意地悪をし続けていたんだ。
いつお仕置きされるかと警戒して、その度その度こうされるかも、ああされるかもと想像しては肩透かしをくらい、生殺し状態で困惑しながら安堵する俺を、ずっと愉しんで観察していたのか。
「本当っ、どS!意地悪!性格悪すぎ!」
しかも今度はその散々想像していた中身を言わせるとか。
「そんなお仕置き…。本当、底なしのサディストっ!」
「クックックッ、相変わらず、恋人に向かってなかなかの暴言だな」
「っ…」
だって本当のことだもん…。
「その目。本当おまえは…」
愉しませたくてしてるんじゃないけどねっ!
「だから苛めたくなる」
あー、もう本当、この人、誰かどうにかして。
「っ…」
なのに好きなんだもんな…。
もうむしろ俺の方こそ誰かどうにかして。
「っ、車の中ではっ…」
結局勝てない。
悔しいから、せめて恥ずかしがって戸惑って愉しませてなるものか。
平然と堂々と暴露してやる。
ツン、とそっぽを向きながら、挑戦的に口を開いた俺を、火宮の愉悦に揺れた目が見てきていた。
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