229 / 719

第229話

ガシャン! 「あっ、やば…」 手が滑って床に落ちた湯飲みが割れた。 「火宮さんのだ…」 わざとではないし、多分怒られはしないだろうけど…。 なんだかゾクッと嫌な予感がして、俺は破片を拾い集めようと、慌ててしゃがみ込んだ。 「痛っ…」 チクリとした痛みを指先に感じ、ビクッと手が震えた。 「あちゃー」 ツゥ、と指先に滲んだ血を見て、思わず眉が寄る。 「やっちゃった…」 割れた破片で切ってしまった指を見つめて、俺はそこをペロリと舐めた。 「伏野さんっ!…伏野さん?」 突然、バンッ、とリビングのドアが開く音がして、ドカドカと人の足音が響いてきた。 声からすると浜崎か。 こんな夜に何の用だろう。 「伏野さんっ?!」 あ、見えないのか…。 焦ったような足音がバタバタと歩き回っているのを聞いて、俺はゆっくりとキッチンの床から立ち上がった。 「ここです、どうしました?」 ひょこっ、と調理台の影から顔を出した俺に、浜崎が一瞬驚いて飛び上がる。 「のわっ!あぁぁ、よかったっす。そんなところにいたっすね」 俺だと認識して、ホッとしたように調理台を回ってきた浜崎の目が、足元の床に落ちて止まった。 「これは…」 「あー、ちょっと落として割っちゃって…」 「っ!伏野さん、怪我は?」 「あは。やっちゃいました」 ドジが恥ずかしくて、舐めていた指をそっと見せたら、浜崎の顔が大袈裟なほど青褪めた。 「す、すぐに手当てをっ!救急箱はありますかっ?!なかったら下に行ってすぐ取って…あっ、でも今持ち場を離れるわけにも、そうだ内線で…」 ワタワタとパニックを起こす浜崎に、思わず苦笑が漏れる。 「あの、こんな小さな切り傷、大丈夫ですから」 正直、舐めておけば治ると思う。 「でもっ、会長の大切になされているお身体にっ…」 「あー…」 そうだった。 「俺のものに傷をつけたな?仕置きだ」って、ニヤリと笑って迫ってくる火宮の姿を、簡単に想像出来てしまった。 「はぁっ…」 火宮の帰りが憂鬱になってしまった俺に、浜崎の苦笑が向く。 「とりあえず絆創膏とか…」 「それくらいなら向こうの棚にあります」 怪我用ではなく、別の用途に買っておいたことは内緒だ。 「自分でしますから」 「そうっすか?まぁオレなんかが伏野さんに触れたらマズイはマズイっすね」 「またぁ」 「いや、マジっすから。じゃぁ伏野さんは下がってもらって、オレが割れたものの片付けをしますから」 これ以上怪我を増やすなと言われて、俺は大人しく破片を避けてキッチンを出た。 俺がやらかしたのに、その後始末をさせるのを悪いとは思う。 けれどもし手を出して、浜崎の目の前でさらに怪我をしようものなら、浜崎の立場が悪くなってしまうことはさすがに分かっている。 「すみません…」 「気にしないでください。それより片手で手当てできるっすか?」 「大丈夫です」 ペロペロと指をしゃぶりながらリビングに向かった俺から、何故か浜崎が気まずそうに視線を逸らした。 「あっ、ねぇそういえば、浜崎さん」 絆創膏を貼り終えて、ひょこっとキッチンを覗いた俺は、大事なことに気がついた。 「なんすか?」 「いや、こんな夜にわざわざ来たのって、何か急用があったんじゃないんですか?」 もう夕食も済んで、食器の片付けをしていたところで湯飲みを割っちゃったわけだし。 「え、えーと、そのですね…」 「はい?」 「いや、用というか、その…」 この歯切れの悪い態度はなんなのか。 「浜崎さん?」 「そのっ、オレ、申し訳ないっす…」 え?何これ。 いきなりガバッと頭を下げられるって。 「え、何です?」 まさか火宮の帰りが遅い隙に…夜這い的な? 「はぁっ?!ちょっ、伏野さん!いくらなんでも、その勘違いだけは勘弁してくださいっ!」 ガシャン! せっかく拾い集めていた湯飲みの破片が、またも床に散らばった。 「あれ?俺、口に…?」 「あぁぁ、すみませんっ。片付け直します。けどっ、たとえ冗談でもその発言はないっす!」 「す、すみません…」 怒鳴られちゃった…。 さすがはヤクザの構成員だ。 普段は忘れがちだけど、こうして鋭く睨まれるとやっぱりちょっと迫力がある。 「あ、いえ。その、怒ったわけじゃなくって…その、ちょっとテンパって…」 「あ、はい。うん、分かってます」 俺が夜の突然の訪問の理由を、勝手におかしく解釈したから。 「あの、その…」 オロオロと、さっきの迫力が嘘みたいに、今度はものすごく困った顔を浜崎が浮かべたとき、またもリビングのドアが無造作に開いた。 「伏野さんっ」 ばっ、と床から立ち上がった浜崎が、俺の前に回り込む。 「何を騒いでいる」 浜崎の背中に隠され見えない向こう側から、冷たく平坦な聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「ほっ、真鍋幹部…」 「何か割れた音と、言い争う声が聞こえてきたが?」 ひょこっと浜崎の後ろから顔を出したら、ジロッとこちらを睨んでいる真鍋が見えた。 「無事か」 「はいっ。こちらは何も異常ありません」 「それは?」 俺と浜崎の側まで来て、床に散らばった陶器の欠片を見下ろした真鍋の目が鋭く光った。 「あー、俺が手を滑らせて割っちゃって。火宮さんの湯飲み…」 「会長の…」 ポツリと呟いた真鍋に、浜崎の身体がピクンと震えた。 「あの…」 「翼さん、お怪我は」 「指先をちょっと。でも大したことないんです」 ほら、と絆創膏を巻いた指先を見せた俺に、真鍋の目が細められた。 「消毒はきちんとなさいましたか?」 「あー」 思わず逸れてしまった目に、真鍋の深い溜息が被る。 「手当てをし直しますので、こちらへ」 呆れた顔でリビングのソファの方へ誘われる。 「浜崎はそれを片付けておけ。まだ当分、こちらにいてもらう予定だ」 「はいっ!」 ピンッ、と背筋を伸ばした浜崎が見える。 だけど何だろう。 幹部の前だから、という緊張感の他にも、何だかやけに緊迫した空気を感じる。 それは浜崎からだけではなく、真鍋からも感じる気がして…。 「あの…真鍋さん」 「何ですか?」 「どうしてこんな夜に…真鍋さんだけで…」 火宮同伴じゃなくって、連絡だけ、っていう様子でもなくて。 「浜崎さんも…さっき、俺を庇うように、前に飛び出しましたよね…」 まるで賊でも入ってくることを警戒したみたいに。 「真鍋さん、真っ先に無事を確認…っ」 あぁ、気付いてしまった。 浜崎が夜に突然、これといった用事もなく来た理由。 真鍋までやって来て、こちらの異変を気にした理由。 「何が、あったんですか?」 何かあったのか、ではない。 何かがあったのが確実だから。 ジッと見つめて答えを求める俺に、真鍋の少し困ったような苦笑混じりの微笑が向いた。 「さすがは優秀な頭脳をお持ちですね…。頭の回転が早すぎます」 「真鍋さん!」 誤魔化すなんて許さない。 だって、全ての状況から導き出される答えは、だって…。 「火宮、さん、は…?」 ただ1つしかない。 震える声が、どうか予想が当たらないでくれと訴える心を滲ませてしまった。 「真鍋さん…?」 縋るように見つめてしまった目の先で、真鍋の唇が、まるでスローモーションのように、ゆっくりと言葉を形作った。 「え…?」 聞こえなかったわけじゃない。 脳が、理解することを拒否した。 「えっと…」 嘘だ。真鍋さんでも冗談を言うことがあるんですね。 ヘラッ、と緩めたつもりの顔は、多分笑顔に失敗して、不恰好に崩れた。 「嘘でも冗談でもありません」 「っ…」 嫌だ、やっぱり聞きたくない。 耳を塞ごうとした手が、その目的を果たそうと、耳に辿り着く前に。 真鍋の口が再び同じ言葉を紡ぎ出す。 「先ほど会長が、撃たれて病院に運ばれました」 ジーンと痺れたようになってまったく動かない頭の中に、誰かが激しく絶叫している声が聞こえた。 お気に入りイイネ 前へ次へ

ともだちにシェアしよう!