232 / 719
第232話
カチャン…。
キッチンの方から、微かな物音が聞こえて、俺はふと、そういえばもう1人、ここにいたんだってことを思い出した。
「あ…」
ぼんやりと顔を上げたら、キッチンから遠慮がちに浜崎が出てきた。
「あの、伏野さん、大丈夫っすか?」
俺と真鍋のやり取りはもちろん聞こえていただろう。
心配そうに近づいてくる声に、俺は慌てて涙を拭って、無理矢理ニコッと微笑んで見せた。
「すみません。お騒がせして…」
「いえ、まぁその、真鍋幹部は厳しい人っすからね」
励ましてくれるつもりだろうか。
ニッ、と笑う浜崎にそっと頷いて、俺はとりあえず床から立ち上がり、ソファに移動した。
「俺はなれないです…。真鍋さんみたく、どんなときも冷静に冷酷になんて」
「そうっすね。真鍋幹部は…機械みたいなお方ですからね…」
そうだね。本当に、そうだよ。
「真鍋幹部も多分、会長の身をものすごく案じていらっしゃると思うっすけど…」
全然、そんな様子、見えないもんな…。
「それでもあの方は、感情を一切お消しになられて、ご自分のなすべきことを、迷わずなされる…そんなお方ですからね…」
本当、すごいよ。
すごくて尊敬する。
本当はきっと誰より、今の俺の気持ちを分かってくれる人のはずなのに。
自分だって俺と同じ、もしくはそれ以上に、火宮の側についていたいと思っているはずなのに。
それでも真鍋は、自分の仕事を最優先する。
部下たちに采配を振るい、冷静な判断で、火宮のためだけに、病院を離れてこうして俺の元にいる。
「きらい…」
「伏野さん?」
「大きらい。すごすぎて、むしろ憎いよ…」
俺にできないことをサラッとやって、俺との差を見せつける。
誰より火宮が大切で、火宮のためなら自分を捨ててでもなんだって出来る人。
「火宮さんが、1番大切にする、1番近い人…」
「伏野さん…」
「っ、俺だって、俺だって頑張って、火宮さんの隣に立つに相応しい人間になりたいですよ?!ちゃんと立場を自覚して、火宮さんのためにここで大人しく護られている、それが、正しい振る舞いだって分かってる。分かってる、けどっ…。出来ないっ。側に行きたい。ただ側にいたい…」
撃たれたって。
血がいっぱい出たって。
意識がないんだって。
火宮が。火宮が。
ただそれを思うだけで、やっぱり感情は爆発して、抑えの効かない奔流となって溢れ出す。
「うっ、ふっ、うぇぇえっ、っく…」
「伏野さん…」
またもボロボロ泣き出してしまった俺を、浜崎が困ったように見ているのが分かった。
「す、みま、っひっく、せん…」
「いえ…。お辛いっすよね…。あっ、オレ、温かいミルクでも入れるっすね!ホットミルク、お好きっすか?」
ワタワタと慌てながら、キッチンへ向かおうとする浜崎に、思わず泣き笑いが漏れた。
必死で気遣ってくれる、その気持ちが嬉しい。
「ありがとうございます。牛乳、冷蔵庫にあったと思います」
「じゃぁキッチンと材料、お借りします。えっと、伏野さんのマグカップは…」
「手伝います」
慣れないキッチンで、遠慮もあるだろうし、一緒に作った方がきっといい。
それに、何かをしている方が気が紛れるかも、と思って、俺もソファから立ち上がってキッチンに向かった。
「これっすね、伏野さんのカップ」
「はい。あっ、浜崎さんも飲みますか?」
ひょいっ、ともう1つカップを取り出した俺は、コトンとそれを調理台に置いた。
「まっ、ま、ま、ま…」
「え?」
「あのこれっ、か、か、か、か…」
「浜崎さん?」
どうしたんだろう。
なんか浜崎が音飛びするCDみたいになってるけど。
「待って下さいっ、伏野さん!これはまさか、会長のカップじゃないっすよね?!どう見てもお揃いの色違いっすけど!」
「え?」
まぁそうだけど。
それがなに。
「伏野さんっ!まったくあなたはー。何を考えてるっすか。会長のカップなんて、畏れ多くて、使えたもんじゃないっすよ…」
ブツブツと言いながら、ものすごく丁重に火宮のカップを棚に戻している浜崎の後ろ姿が見える。
「それにオレは仕事中っすから、ホットミルクで和んでいる場合では…」
ブツブツと言っている無防備な後ろ姿が目の前に揺れていて、頭の中がジーンと痺れた。
「っ?!ふ、しの、さん…?」
「ごめんなさい、浜崎さん」
「っ…」
ぎゅっ、と後ろから抱きついた身体が、面白いほどにピキッと強張った。
「ごめんなさい」
気づけば俺は、調理台の下から包丁を取り出していて、後ろから羽交い締めにした浜崎の首元に、その刃を向けていた。
「このままゆっくりとリビングに出て下さい」
「伏野さん…」
「真鍋さんを躱すまで、人質になって下さい。エレベーターの指紋認証も操作して…」
ぐっ、と包丁を握った手に力を入れたところで、ふとリビングのドアが開き、スマホを片手に持った真鍋が戻ってきた。
「動かないで下さいっ!」
「…あなたはまた、何を始めたのです…」
真鍋の呆れた目がこちらに向く。
「馬鹿なことをしていないで、それを下ろして浜崎を離しなさい」
「嫌ですっ!そこを退いて」
わずかの動揺も見せない真鍋が悔しい。
リビングの入り口を塞ぐように立ったまま、余裕の表情でドアに寄り掛かかるその態度がムカつく。
「本当に刺しますよ」
「お出来になられるのなら、どうぞご自由に」
「っ!馬鹿にしてっ!本当に浜崎さんを…」
「だからどうぞ、と」
シラッと言い放つ真鍋に、包丁を持った手がプルプルと震えた。
「真鍋さんっ!」
「まぁ人質を取って私の身動きを封じ、その人質がエレベーターの作動可能な人物というのは、理に適った上出来な策ですね。さすがは優秀な頭脳をお持ちです」
「なっ…」
「ですが、馬鹿ですか?」
スゥッと目を細めた真鍋が、あまりに無遠慮に、ドアから背中を離し、俺たちの方に近づいてきた。
「それ以上近づいたらっ…」
「浜崎」
「いいんすか?!すみませんっ、伏野さんっ」
え…?
本気で刺し…と叫ぼうとした瞬間に何故か、カラーンと包丁が床に落ちていて、ドスッ、とみぞおちに痛みを感じたと思ったら、ツンと酸っぱい空気が、鼻と口に抜けた。
「な、んで…」
ズルズルと崩れ落ちていく身体を、ドサリと真鍋に抱えられる。
吐き気を堪える口がオェッとえづき、涙がジワリと滲んだ。
「ど素人に遅れを取る我々であるはずがありません」
あぁ、そうだこの人たち、ヤクザの幹部と構成員だった。
しかも、かなり腕の立つ護衛…。
簡単に羽交い締めから抜け出した浜崎と、その瞬間に包丁を蹴り上げて俺の手から捨てさせた真鍋。
間髪入れずに腹に打ち込まれた肘を感じたところで思い出してももう遅く。
「悪戯が過ぎましたよ、翼さん」
ゾクリとするような冷たい声が聞こえて、意識が急激に遠ざかる。
「浜崎、おまえも、いくら遠慮があったとはいえ、翼さんに背後を取られるなど」
「申し訳ありませんっ」
「そこに座っていろ」
「はいっ」
あぁ、ごめん、浜崎さん…。
暗くなっていく視界の中に、床に正座した浜崎が見えた。
「く、はッ…」
軽く咳き込んだのを最後に、俺は真鍋の腕の中で、そのままスゥッと意識を失った。
ともだちにシェアしよう!