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第236話
「…のさん。…伏野さん」
「へっ?あっ、はいっ!」
びっくりした。
ソファに座ったまま、ぼんやりしてたのか。
「あぁ良かった。目を開けたまま、寝てるのかと思ったっす」
目の前でヘラリと笑うのは、いつの間にか戻ってきたらしい浜崎で。
「あ、俺…」
数時間前の出来事を一気に思い出して、かすかに手が震えた。
「ごめんなさ…」
「伏野さん、出かける支度をして下さい」
「え…?」
あっけらかんとした笑顔で、はい、と渡されたのは、つばのある帽子と黒いマスクで。
「あの…」
その前に謝罪を、と思うのに、浜崎はグイグイと謎のアイテムを押し付けて、支度を急かしてくる。
「会長のところ、早く行きたいっすよね?」
「え…」
行けるの…?
ガバッと持ち上げてしまった視線が、バチリと浜崎の目と合った。
「っ…俺、ごめ…」
「伏野さん、それナシで。ほら、早く支度をして下さい」
「っ…」
何でそんなに平気な顔で俺に笑えるんだろう。
俺にほんの数時間前に刃物を突きつけられたっていうのに。
そのせいで、まぁ見た目にはなんの怪我も見当たらないけど、きっとその服の下には真鍋にやられた痣があるだろに。
「伏野さん?」
「俺…」
「大丈夫っす」
「俺っ…」
「分かってるっすから」
にかっ、と笑う浜崎の、曇りのない信頼が痛かった。
「俺っ…もう、絶対に…」
俺は、2度とこの人を裏切らない。
蒼羽会会長、唯一のイロ。唯一の本命。
その立場を受け入れる覚悟は決めた。
「浜崎さん…」
「なんすか?」
「いえ…」
ありがとうございます。
その言葉は内心にそっと仕舞う。
「すぐに着替えてきます」
「分かったっす。それ、気休めっすが変装なんで」
帽子とマスク…。
「襲撃者の方は、真鍋幹部が大元から取っ捕まえて押さえてあるそうで、もう直接的な危険はないみたいっすけど、他が…」
「他?」
敵以外に何が…。
「その、情報操作はしてるらしいっすけど、やっぱり銃撃事件っすからね…マスコミがもう嗅ぎつけたらしくて。当然ながら組対は動き始めてますし。顔の露出は控えてもらいたいそうっす」
「そ、うなんですか…」
そうか。そんな警戒も必要なんだ…。
しみじみとこの立場を実感しながら、俺はとにかく外出の支度を済ませることにした。
「っ…」
変装のおかげか、ガードさんたちの頑張りか、俺は無事に火宮が入院しているという病院に連れてきてもらえた。
「後は真鍋幹部が付き添いに…あ、いらっしゃった」
廊下の先からやって来た真鍋の姿が見えて、俺はもういいだろうと、マスクと帽子を外した。
「浜崎、首尾は」
「上々ですっ」
「ご苦労」
短い労いの言葉なのに、浜崎の顔がパァッとあまりに嬉しそうに輝く。
「翼さん、行きますよ」
「あ、はい、あの…」
「礼はいりません、やつらは仕事です」
後ろの浜崎を振り返ろうとしたのがバレた。
でも感謝は感謝で…。
「それでもやっぱり。ありがとうございました!」
「翼さん!」
「っ…俺は、火宮さんの本命だけど…俺自身が偉くなったわけじゃないんです」
「ですがお立場は」
「分かっています。だからこそ」
火宮の本命。それは構成員より上に立ち、もっと横柄に振る舞うものかも知れないけれど…。
「『会長』のために『俺』を守ってくれる人たちに、『会長の本命』が謝意を伝えることは、『会長』のためにはなりませんか?」
「それは…」
俺は俺の考えるやり方がある。
「少なくとも俺は、俺のやり方で火宮さんの隣に立ちます」
間違っていないと思う。
「ふっ…」
真鍋が漏らした小さな笑みは…。
「あなたらしいです」
「っ!」
認めてくれた…。
スッと背筋を正した真鍋が、廊下の先へエスコートしてくれる。
少しだけ嬉しくなりながら歩いて向かったその先で…。
ここへ何をしに来たのか忘れかけていた俺の心が凍る。
「っ…」
案内された特別集中治療室の中。
ガラス越しのベッドに眠る火宮の姿を見た瞬間、手が、足が、身体全体が、小さく震えて、視界がぼやけた。
「刃っ…」
機械に囲まれ、たくさんのコードに繋がれ、呼吸器を口に突っ込まれ…。
「刃っ…」
目を閉じたままの美貌があまりに似合わない姿になっていて。
「じんーっ…」
思わずガラスについた両手のひらが、ヒヤリと冷える。
「じ、ん…」
紡ぎ出す声が頼りなく震えた。
「っ…」
意識がないとは聞いていた。
けれどそれはどこか実感がなくて、どこか楽観視している俺もいて。
あの火宮なんだから大丈夫。
眠っているって言ったって、それは一時的なもので…。
どこかでそんな風に思っていた俺がいた。
だけど今、目の前にいる火宮は…。
「だってこんなの…」
規則正しい波形を描くディスプレイだけが、かろうじて火宮が生きているんだってことを教えてくれる。けれど、それが見えなければ、まるで、まるで…。
「っ…」
ポタリと落ちてしまった涙が、足元に大きな穴を開けた。
地面がガラガラと崩れ去り、真っ暗な闇が足元に広がっていく。
あれ?
俺は今、どこに立っているんだろう?
すべての感覚があまりに不確かで。
「翼さんっ!大丈夫ですかっ?!」
誰?
ズルズルと下がっていく身体を、誰かの手が支えている。
「翼さん!しっかりなさって下さいっ…」
だって床がないんだ。
だから落っこちる…。
「翼さんっ!」
急激に遠ざかる音声の向こうに、ゆらゆらと揺らぐ波形だけが、無音で一定の動きを刻んでいた。
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