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第237話

「っ?!え、どこ…?」 ガバッと起き上がった身体が、クラリと横に傾いた。 「翼さん、急に動かないで下さい」 「真鍋さんっ、俺…」 「寝不足と軽い脱水症状でお倒れになりました。昨夜から今朝も昼も、何も口になされなかったのですね…」 「っ…」 そういえば食事を取ることなんてすっかり忘れていた。 「私もうっかりしておりました。申し訳ございません」 丁寧に頭を下げる真鍋だけど、この人もそれだけ動揺していたんだってことだろう。 「っ、自己管理です…。それより…」 火宮さん。 「会長は変わらずです。あのお姿を見たショックも大きかったのでしょう。今点滴をしていますので、それが終わって落ち着いてからまた…」 あ?いつの間に注射なんて。 ふと腕の違和感に目を向けたら、ベッド脇の棒に吊り下げられた輸液パックから伸びるチューブに繋がれていた。 「っ…」 俺が倒れている場合じゃないのに。 なんだこの情けない姿は。 苛立ちが自分に向く。 「俺がっ…」 しっかりしなくちゃ。 自分に言い聞かせ、腕に貼り付けられたチューブの先に手を伸ばす。 ズルッ…。 「翼さんっ?!」 「痛ったぁー!」 うわ、痛い。本気で痛い。 しかも血が…。 思わず涙目になりながら痛む腕を押さえたら、真鍋の怒鳴り声が横から飛んできた。 「なにを無茶なさっているのですっ!」 「ひっ…」 だって…。 「すぐに医者を…。まったく、自分で点滴を引っこ抜くなど…」 「だって火宮さんのところに…」 すぐに行きたい。 コールボタンを押した真鍋が、怖い顔をして俺を睨んでいた。 「はいはーい。ん?なになに?点滴を自己抜去したって?」 白衣を翻したお医者さんが、揶揄うように言いながら室内に入ってきた。 「あの…」 「無茶するね、きみ。ま、それだけの元気があるならもう大丈夫でしょ。腕見せて」 言うが早いか、さっさと傷口を押さえている手を退かして、勝手に消毒を始めている。 「先生?」 「まぁ動けるなら問題はないよ。行きたいんでしょう?カレシのところ」 ペタッと絆創膏を腕に貼って、グッと押さえた医者がウインクをしてくる。 「カレシって…」 「はい、ここ、少しの間強く押さえておいて」 「はぁ…」 「行ってもいいよ。ね?真鍋さん?」 にこっと笑うこの医者が、話に上がる蒼羽会お抱えの医師なのか。 「先生が許可なさるなら」 「ん、オッケー、オッケー。面会セットつけてくれれば、ICUの中にも入れるよ」 ポン、と頭に乗った手が、「大丈夫」って言っているような気がした。 「あの…先生が火宮さんの…」 「うん、主治医」 「火宮さんはっ、目、覚ましますよね…?」 不安に震える唇をグッと噛み締める。 「彼次第、だね。だから覚ましてくれるように、近くで声をかけてあげてよ」 「え…」 にこっと笑う医者が、無邪気に小首を傾げた。 「人間の聴覚を舐めたらだめだよー。呼びかけてあげて。きっときみの声は聞こえる」 ね?と笑う医者があまりにはっきり言うものだから、なんだか俺までそんな気がしてきた。 「真鍋さん…」 「はぁっ。先生がいいというなら、私に反対する理由はありません。翼さん、本当に大丈夫ですね?」 暗にあの火宮をもう1度見れますね?と問われている言葉に、俺は強く頷いた。 「付き添うよ」 どうぞ、とエスコートをしてくれる医者の手を取って、俺はベッドからスルリと抜け出した。 「っ…」 やっぱりピクリとも動かない火宮が、たくさんの機械に囲まれて眠っている。 薄い黄色のガウンタイプの予防着にマスク、帽子に靴カバー。 火宮の眠る部屋に入る際につけさせられたそれらが、この部屋が特別な管理を必要とする重症者の部屋だということを痛感させる。 「っ、ひ、みや、さん…?」 シュコー、シュコー、と響く呼吸器の音。 ピッ、ピッと鳴る心電図の機械音。 耳に大きく響くその音が、心をザワザワと落ち着かなくさせる。 「火宮さん…」 何かクリップみたいなものがついた指を避けて、そっと布団から出ているその指先を握る。 「っ…」 体温は、ある。 だけどピクリとも動いてくれない指が、火宮の深い眠りを痛感させる。 「火宮さん。火宮さんっ…」 泣くな、俺。 泣いちゃ駄目だ。 火宮は頑張っているんだから。 「火宮さんっ…刃。刃っ…」 答えて、お願い。 聞こえているでしょう? ねぇ、俺はここだよ。 「刃っ…。戻って来て…」 ぎゅっと握った手は、作り物のようにダランと重くて。 「ねぇ、笑って下さいっ…」 ニヤリ、っていう、意地悪な笑みでいいから。 「しゃべって…」 「仕置きだな」なんていう、意地悪な台詞でもいいから。 「俺を、見て、下さっ…」 っ…。 駄目だ。 涙が…。 堪え切れない…。 ポロポロと溢れた水滴が、火宮の布団に落ちて染みを作る。 「火宮さぁん…ひっく、ぅぇっく…」 起きてよ。話してよ。 見てよ。笑ってよ! 「うぅぅっ、ふぇぇっ…火宮さん…」 ぎゅぅぅっ、と力の限り手を握ってしまったのに、火宮は痛がりさえしてくれない。 「火宮さん…」 祈りを込めて呼びかけた、その瞬間。 ピンコーン、ピンコーン…。 ベッドサイドモニターのアラームが音を立てた。 「っ?!」 ピピピピッ、ピピピピッ…。 けたたましく音を変えるモニターの中で、規則正しかった波形が激しく乱れる。 「先生っ…VF(心室細動)ですっ」 「退いて!DC(除細動器)用意して!」 バタバタと医者や看護師が慌て出す。 え…? 何が、起きているんだろう…。 勢いに呑まれてフラフラと足を引いた俺の目の前に運ばれてきたのは、医療ドラマで見たことがある。 電気ショックをする機械だ…。 「っ…」 「すみません、少し出ていて下さい」 スタッフに促され、部屋の外へと連れて行かれる。 「ひ、みや、さん…?」 振り返った後ろで、モニターに映っている数字が、めまぐるしく下がっていく。 それは、血圧の数値? 「や…いやだ…」 掠れた声は、俺のもの…? 「いやだ…嫌だぁぁぁっ!」 火宮に向かって伸ばした手は、誰かにぎゅっと押さえられ、火宮の側に戻ろうとする身体が、無理矢理外へ引き摺られていく。 「嫌だっ…」 連れて行かないで。 お願い、聖さん…。 お願い!父さん、母さんっ…。 「あぁぁぁぁーっ!」 連れていかないで、お願いだからっ…。 ドンッ、と激しい電気ショックの音が聞こえたと思った瞬間、室外に連れ出された俺の後ろでパタンとドアが閉じた。 シャッと引かれたカーテンが、俺から火宮の姿を隠してしまう。 「っ、刃…」 様子が見えなくなってしまった室内。 それでもガラスに張り付いて必死で祈る。 「刃…」 いかないで…。 俺を置いていかないで。 ぎゅぅっと力を込めた指先が、ギギギ、とガラスに擦れて痛む。 「翼さん…」 「っ…」 握った拳の上に、そっと真鍋の手が重なった。 ーー大丈夫です。信じましょう…。 強く頷く真鍋の顔色が、いつにも増して人形みたいに血の気がなく青褪めていて…。 「っ…」 噛み締めた奥歯が軋む。 火宮さんっ…。 必死の祈りが、涙となって、ツゥーッと頬を伝い落ちた。

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