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第238話
そうしてどのくらいの時間が経ったのだろう。
真鍋に促されて移動してきた廊下のソファーベンチに座ってから、何分も、何十分も経った気がする。
膝の上で組んだ手が、さっきからずっと小刻みに震えたまま止まらない。
「火宮さん…」
今、一体どんな状況になっているんだろう。
スタッフが呼びに来てくれないってことは、まだ火宮の状態は落ち着かないのか。
「っ…」
まさかこのまま死んじゃったりしないよね…?
「真鍋さん…」
思わず潤んでしまった目を上げる。
腕組みをして、軽く目を伏せて立っていた真鍋の顔が、ゆっくりとこちらに巡らされた。
「大丈夫ですよ」
淡々とした無表情の真鍋があまりにいつも通りで、なんだか救われる。
きっと真鍋だって不安だろうに、まったくそんな素振りを見せないこの人は、本当に強くて優しい。
「火宮さんが、真鍋さんを必要とする意味が分かります…」
真鍋は、もしも火宮に万が一があったとしても、きっと人前では絶対に動揺を見せたりしない。
火宮が誰より信頼していて、きっとそのすべてを預けていける人。
「俺は…」
俺は一体どうなんだろう。
真鍋は火宮に何があっても、片腕というその役目を果たし、惑う俺やみんなの前に凛然と佇み、導いてくれるのに。
「俺にできることは…」
ただこうして無事を祈ることだけか?
泣き叫び、ひたすら呼びかけ、ただただ火宮が自力で這い上がって来るのを待つ…。
「無力だなぁ…。俺には、何もできない…」
見下ろした両手が、あまりに何も持たなくて、自嘲的な泣き笑いが浮かんだ。
「俺ね、真鍋さん。あなたと火宮さんの絆が、羨ましいです」
火宮がどんな状態にあっても、この2人の間にはちゃんと支え合える繋がりがある。
何も言葉を交わさなくても、互いがきちんとやるべきことをこなし、互いがそのことを信じ合っている。
「俺は…?」
火宮の恋人だ。
蒼羽会会長の本命だ。
互いがそう言い合って、近しい数人だけがその事実を知っていてくれている。
ただ、それだけの繋がり。
「俺はなんなのかな…」
火宮に何かがあったとき、ただ惑って動揺して、泣いて喚いて、ただ嘆く。
火宮が存在しなければ、俺にできることは何もない、そんな…。
「あなたは会長の恋人です」
「っ…」
不意に紡がれた真鍋の言葉に、ビクッと肩が跳ねた。
「あなたは会長の、帰る場所ではないのでしょうか」
「え…?」
帰る、場所…?
「あなたは会長が、ただの火宮刃でいられる唯一の場所」
「っ、それは…」
「翼さん、会長がお笑いになるのは普通ですか?」
「え?そりゃ…」
当たり前でしょ。
何を言ってるの、この人。
「嫉妬をなされる会長は?」
「え…」
「些細なことに腹を立て、意地悪なさる会長は。嬉しそうに声をあげるお姿、表情を動かされる会長は。それらはすべて、普通で当たり前のことですか?」
「っ、はい…。当たり前、ですよ、ね?」
何が言いたいの…?
「ふっ。あなたにだけです」
「え…?」
「会長がなんの気負いもなく素でいらっしゃるのは、あなたの前でだけです、翼さん」
「っ…」
そんなの…。
嘘だ、とは言えなかった。
なんとなくだけれど、それは浜崎や他の部下の人たちや、七重や真鍋の態度や言動で感じていたことだった。
「今の会長のお姿を見せてもいいと私が思ったのは…。会長がきっとそう思っているだろうと私が思うのは…」
そうだ。
警護のためとはいえ、火宮の病室近辺には、真鍋以外の部下の姿がなかった。
中に入ったのも真鍋と俺だけ。
それは、この弱り切った「蒼羽会会長」の姿を見せられる人間が限られているということで。
火宮の求心力を落とさないために、真鍋が独断で制限しているということで。
「あなたが何より会長の大切な方で、あなたがいつでも会長の帰る場所で、火宮刃の1番の居場所だからです」
っ…。
俺は…。
「あなたは何もできないのではありません。あなたにしかできないことがあるんです」
「っ!」
真鍋の言葉がじわりと胸に広がった。
熱い何かが込み上げる。
「会長をこの世に繋ぎとめることができるのは…死の淵に立つ会長を呼び戻すことができるのは…。私は、あなただけだと思っています」
「っ、ぁ…」
「あなたは会長の帰る場所として、火宮刃の居場所として、そこに存在(あ)る」
「っ…」
「会長がお戻りになる場所を空けて、会長がお戻りの際に、笑って『お帰りなさい』と出迎える。それが、あなたにしかできない、あなたのなすべきこと…なのではないでしょうか…」
「っーー!」
俺は…。
俺は!
込み上げた涙をグッと堪えて顔を上げた瞬間、真鍋が強く頷いた。
その顔を見て、俺に1つの覚悟が決まる。
「真鍋さん、俺…」
想いを言葉に乗せようとした瞬間。
パタパタと廊下の先から白衣を翻した医者が駆けてきた。
「安定したよ。もう大丈夫」
ふわりと微笑んだ医者の言葉で、俺は気づけばソファーから立ち上がり、火宮の元へ走り出していた。
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