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第241話
「お帰りなさい」とか、「心配したんです」とか…言いたい言葉はたくさん浮かんできたけれど、その1つも言葉にはならなくて。
「刃っ…」
座り込んでしまった床から、必死で立ち上がろうともがくけど、なんだか身体に力が入らない。
「じん…」
「翼?」
見えない、よね…。
ジタジタと床でもがく俺を、医者が見下ろして笑っていた。
「安心して気が抜けちゃったかな」
「あは、あはは…ッ」
泣き止め、泣き止め、俺。
火宮が何事かと思うだろう?
「っ…じん。じんー」
だけど嬉しくて、ホッとして、やっぱりどうしようもなく涙が溢れてしまう。
「ひっく…ふぇっ…」
「翼?」
「ごめっ、なさ…違うんです、違う…」
「俺が、泣かせたんだな…」
ごそっと身動いだ音が、ベッドの上から聞こえた。
「っ…火宮さん…」
医者が、そっと手を貸してくれて、俺は何とか立ち上がる。
火宮に俺の顔が、俺から火宮の顔が見えるようになった。
「翼」
呼吸器の代わりにつけられた酸素マスクを邪魔そうに外し、火宮が薄く目を細めて両手を伸ばしてきた。
「あっ、こら…」
「翼」
「刃っ!」
医者が叱るのも無視して、火宮が酸素マスクを放り捨てる。
医者の咎める声を振り切って、俺は伸ばされた両腕の中に飛び込んだ。
「待ってました。ずっと、ずっと待ってた…」
「翼…」
「よかった…本当に、よかっ…ンッ」
「はぁっ」て後ろから聞こえた溜息は、真鍋のもの?
「まったく…」って小さく呟かれた声は、医者のそれだ。
「ん、んっ…ふっ、ん、ぁっ…」
みんな見てる。
見てるけど…いいや。
合わせられた唇が、絡まる舌が、温かくて激しくて、火宮が生きてるんだって実感する。
帰ってきてくれたって実感する。
ずっとずっと待ってたんです。
あなたがこうして目覚めてくれるの。
あなたとまたこうして話せるの。
触れ合えるの。抱き合えるの。笑える、の…。
「んっ…はっ、あ。…火宮さ…」
「翼」
本当に本当に待ち望んでいた。
「っ…火宮さん」
「翼」
「っ……なさい…。お帰りっ、なさいっ」
「あぁ。心配をかけたな」
ふわりと微笑んだ火宮に、俺は思い切りぎゅぅ、と抱きついた。
「ククッ、いい子にしていたか?」
「え…?」
なにその余韻もへったくれもない感じのこの空気。
しかもニヤリって、サディスティックなその笑みは…。
「俺は何日ここにいる」
スッと視線が向かったのは、俺を通り越して後ろの真鍋で。
「3日です」
「そうか。3日か…。こいつは大人しくしていたか?」
チラリと意味ありげに向けられた目に、ギクリと身体が強張ってしまった。
「それは…浜崎にお聞き下さい」
「なっ…」
ちょっと真鍋さん!
あなただって火宮が目覚めて泣くほど嬉しいくせに。
何クールぶって、淡々と無表情になんでもない振りをしているの。
「ふぅん。何か悪さをしたか」
こっちもこっちで、あまりに何事もなかったかのようなその態度。
人に散々心配をかけておいて、腹が立つ。
腹が立つのに…。
「なんなんですかっ…」
悔しいけど、これが火宮だ。
本当の本当に火宮だ。本当に帰ってきたんだって安心するから、もう…。
「ククッ、何をしたかは知らないが、どうやら仕置きだな」
「っーー!」
ニヤリって。
あぁこれぞ日常。
取り戻したいつもの馴染みの光景に、ジーンと震える内心はなんだ。
火宮のその台詞さえ、また聞けてよかったなんて思うからどうかしてる。
そもそも元はと言えば撃たれたりした火宮が悪いのに。
「火宮さんのせいですからっ…」
俺が心配のあまり、うっかりやらかしたのは。
「ククッ、いきなり責任転嫁とくるか」
さすが翼だな、って、だって…。
「あなたが撃たれたりなんかするからっ。意識不明なんかになって、心配っ、かける、からっ…」
どれだけ辛かったと思ってる。
どれだけ泣いたか。どんなに怖かったか。
「そうだな」
ふっ、と自嘲気味に笑った火宮に、ドクンッと鼓動が跳ねた。
「っ…でもっ」
「翼?」
「っ、でも俺は…蒼羽会会長、火宮刃の本命だから…」
ぐっと拳を握り締め、キッと火宮に真っ直ぐ視線を向けて、俺ははっきりと口にした。
「あなたの恋人だから」
きっぱりと言って、ポケットに入れていた紙を取り出す。
「それくらいじゃ、へこたれません」
俺の覚悟は、もう生半可じゃない。
にっ、と笑って、その紙を広げて、寝ている火宮の腹の上にバンッと叩きつけてやった。
「翼さんっ、会長は怪我人ですっ…」
「クッ、やってくれる」
傷に響いたか、顔をしかめた火宮はざまぁみろだ。
「心配かけたお仕置きですよ」
「ふっ、生意気に」
ニヤリと唇の端を吊り上げながら、カサリと紙を持ち上げた火宮の目が、軽く見開かれる。
「ッ、おまえは…」
驚いたような火宮の顔が、物珍しくてなんか勝った気分だ。
「俺の覚悟ですよ」
「ふっ、ちょっと眠っている間に、急にまた一段と強くなって…」
それだけ辛い思いをした証です。
「俺にできること」
「あぁ」
「俺は、あなたの、帰る場所になります」
にっ、と笑みを向けた視線の先で、火宮が艶然と微笑んだ。
「早かったな」
押し付けられた紙を嬉しそうに眺めて。
俺が書き込んだ名前を愛おしそうに撫でて、火宮がそれはそれは甘く蕩けるような声で呟いた。
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