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第251話
「火宮さんっ、お帰りなさい」
ガチャンと玄関が開いた音がして、俺は飛び出す勢いで火宮を出迎えた。
「あぁ、ただいま」
「っ!」
「なんだ」
「初めて言いました!」
は?という顔をして、火宮が眉を寄せている。
「ただいまって。初めて言いましたよ、火宮さん」
「そうだったか?」
記憶にない、と首を捻る火宮に、俺は大きく頷いた。
「会長はお一人暮らしが長いですからね。そのような挨拶の習慣などなかったのでしょう」
「真鍋さん」
「はい、こちら、会長のお着替えやお荷物です」
スッと差し出された大き目のボストンバックが1つ。
「ありがとうございます」
受け取って笑った俺を、火宮がなんかジッと見てくる。
「なんですか?」
「いや、奥さんみたいだな、と」
「っ!」
なにを真顔で変なことを言い出すんだ、この人は…。
「ご結婚なされるわけですから、ある意味正しいですね」
「けっ…違っ、いや、違わないけど、えっ?俺、男っ。っていうか、奥さんて…」
真鍋までなにを言ってくれるんだ。
思わずパニックに陥る。
「会長の帰る場所になられたということです」
「え…」
「会長が自然に『ただいま』と口になされるということは」
あぁ、あぁそうか。
さっき何だか異様に嬉しく感じたのは、無意識にそう思ったからなんだ…。
「ククッ、なるほどな。ただいま、翼」
「っ!んもう、わざわざ耳元で言ってくれなくていいですからっ」
すでにニヤリと揶揄うように笑っている火宮は、まったくもって火宮だな。
「照れるな、嬉しいくせに」
「照れてませんっ。もう、退院早々意地悪なんですから」
「好きだろう?」
どM、って…。
「だから俺はMじゃありませんっ」
「遠慮するな。なぁ奥さん。どうだ?退院祝いにさっそく裸エプロンで…」
あぁぁ、そのブレないどSっぷりに目眩がしてくる。
「遠慮とかじゃなくてっ…」
「いけませんよ、会長」
おぉ、救世主。
「出たな、小舅」
「はぁっ。あのですね、会長。お分かりかとは思いますが、まだ会長は完治なされたわけではありませんからね」
「ふん、もうなんともない」
「またあなたはそういう…。先生もおっしゃっていたでしょう?本当はまだ退院させたくないけれど、無理なさらないという約束で仕方なく、と」
そうなんだよね。
退院させたら火宮が大人しくしていないことくらいみんな分かっていて、すごく渋っていたのに。
火宮の我儘と言うか、鶴の一声というか、とにかくかなり強引に退院をもぎ取ったのは俺も知っている。
「ふっ、翼を可愛がるのは無理などではない」
だーかーら、この人はぁぁぁっ。
「それでまた悪化なされたら…どうなるかよくお考えになられて下さい」
怖っ。
何この冷気。
なのにその冷え冷えとした視線を向けられている火宮は、ニヤリと愉しげに笑みを浮かべたまま、ケロッとしている。
「そうなったら、今度は閉鎖病棟のベッドにでも縛りつけて監禁でもするか?」
「そうですね。ついでに完治まで翼さんと面会謝絶で」
「おぉ怖。仕方ない、大人しくしているとするか」
ニヤリと笑っている火宮は、その言葉の1つも本気ではないのが丸わかりで。
真鍋も火宮がまったく怯む気配がないのも分かっているようで。
「翼さん」
「うぁっはい」
「……もしも会長にご無理をさせて体調を崩された場合、あなたにも責任を取っていただきますよ」
「え!」
俺に火宮が止められるわけがないってば。
「次はお説教と正座程度で済むとお思いにならないで下さいね」
にっこり。けれど目だけがまったく笑っていない真鍋の表情が怖い。
「ククッ、俺が駄目なら翼の方を脅すとは、おまえはヤクザか」
「ヤクザです」
「そうだったな」
さすが汚い、と笑う火宮は楽しげで。
「ひ、火宮さんっ。絶対絶対大人しくしていないと駄目ですからねっ!」
巻き込まれてたまるかー。
「ククッ、仕方がない。可愛い恋人と、俺のことが心配で心配でしょうがない幹部どののお願いだからな」
こ、この人は…。
「火宮さんっ」
「会長っ!」
思わず重なった俺と真鍋の声に、火宮がそれでもふわりと穏やかに微笑んだのが見えた。
本当は火宮さんも分かっているんだよね…。
「まったく、火宮さんも真鍋さんもツンデレだなぁ」
脅したりしないで、あなたの身体が心配だから、って素直に言えばいいのに。
揶揄ってのらりくらりとはぐらかしていないで、分かった、って大人しく受け取ればいいのに。
「翼?」
「誰が何ですって?」
「え?」
やば…。俺また口に?
「やはり仕置きに裸エプロンでローターを入れて…」
「嫌っ!待って!ごめんなさいっ」
「まぁ翼さんが1人で恥ずかしく、1人で悶える分には」
「待って!真鍋さんまでっ。そこは構って!とめて!」
一瞬前には言い合っていたのに、もう共同戦線とかずるいから!
「ククッ、なんてな。今日は久しぶりの我が家で、ゆっくり寛ぐとする」
はぁっ、よかった。
本気でお仕置きするつもりはないみたいだ。
「そうですね。明日は本家に行かれることですし、ごゆっくりお休みになって、体調を整えておいて下さい」
「あぁ」
そうだった。
明日、約束が取れたって、七重にサインをもらいに行くんだ。
「では私はこれで。明日は9時半にお迎えに上がります」
「分かった」
「では失礼します」と綺麗なお辞儀をして、真鍋が帰っていく。
「いよいよ明日なんですねー」
「そうだな。オヤジにサインをもらったその足で、役所にも寄るぞ」
「はい」
ついにその日か。
緊張と、少しの寂しさが急に胸に去来して…。
「翼?」
「いえ…」
伏野姓を手放す。
同時にそれは裏社会に身を置く火宮と新たな繋がりを結ぶことで。
俺を見捨てて逝ったとはいえ、親は親だったかな、なんて急に感傷が湧いて。
もしも話すことができたなら、俺の選んだ道を、どう思うんだろうなんて少しだけ気になった。
「翼」
「はい?」
「必ず幸せにする」
っ!
「な、に、言って…」
もう、いきなり涙腺直撃攻撃とか、不意打ち過ぎ。
「おまえをこの先、もっともっと、ずっと幸せにする」
「っーー!」
ずるい。
そんなの。
込み上げた涙は、堪える術もなくポロポロと目から溢れて、じんわりと胸が震えた。
「ひ、みや、さんっ…」
伸ばした手は、迷わず掴まれ。
グイッと引き寄せられた身体の、唇がそっと重ね合わされた。
「んっ…」
優しく慈しむように柔らかく。
次にはすべてを奪い尽くすかのように熱く激しく、舌を絡め取られた。
「ぷ、はっ…」
「俺と、共に」
「っーー!あなたと一緒にっ…」
見つめ合った目が、どちらからともなく弧を描き。
生きていく。
これ以上ないほど、幸せに、幸せに。
「刃っ…」
ぎゅっと抱きついた火宮から、温かく甘い痺れが全身に広がる。
触れ合った身体から伝わる互いの鼓動が、ゆっくり静かに互いに溶けていった。
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